淮陰(わいいん)に李義(りぎ)という人がいた。幼いときに父親を失い、母親の手一つで育てられたため、大変な母親思いで、その孝行ぶりは孝子として名高い呉(ご)の孟宗(もうそう)や晋の王祥(おうしよう)でさえ及ばぬほどであった。
孝子だっただけに、母親が死んだときの悲しみは深かった。泣き叫んで気を失い、正気にもどるとまた泣き叫んで気を失うというありさまだった。棺に納めて祭壇の前に安置し、その前で「お母さん、生き返ってください」と祈りつづけて、なかなか埋葬もしなかったが、親戚の者にいいふくめられて、一ヵ月あまりもたってからようやく葬儀をとり行なった。
ところが、埋葬を終って泣きながら家に帰ってみると、母親は生きていたときと少しもちがわない様子で部屋に坐っていたのである。そればかりか、立ちあがって李義の方に歩み寄り、その手を取って泣きながらいうのだった。
「わたしは生き返ったのだよ。おまえがわたしを葬ってくれたあとで、わたしは生き返ってそっと家に帰ってきたのだが、おまえにはこのわたしの姿が見えるかい」
「見えますとも、お母さん。わたしの祈りが天に通じたのですね」
李義も涙をながしてよろこび、それからは、これまでにも益して孝養をつくすことにつとめた。母親は李義に感謝しながらいった。
「わたしのためによくつくしてくれて、いつも、ありがたいと思っているよ。ただ、一つだけおまえに守ってもらいたいことがあるのです。それは、わたしを葬ったときのお棺は、そっとそのままにしておいてほしいということです。もしあけたりすると、わたしはまた死んでしまわなければならなくなるからね」
「わかっております。お母さんが生き返ってくださったのに、どうしてお棺をあけてみたりなんかするものですか」
李義はそういって、母親の言いつけを守った。
それから三年たったときのことである。李義は夢の中で、母親が門口に立ったまま泣きながら訴えているのを聞いた。
「わたしはおまえの母親として、ずいぶん苦労しておまえを育てあげたはずだよ。それなのに、わたしが死んでから三年にもなるというのにただの一度もお祭りひとつしてくれず、わたしがわざわざやってきても、犬に番をさせて門から一歩もはいらせないようにするとは、どういうことなんです。おまえがどうしてもお祭りをしてくれないのなら、わたしはおまえの不孝を天帝さまに訴えますよ」
母親は泣きながらそれだけいうと、立ち去って行った。李義は起きあがってあとを追ったが、いくら走っても躰(からだ)が前に進まず、追いつくことができないのだった。
眼がさめてから李義は、あの夢はいったいどういうことなのかと考えつづけて、まんじりともせず夜をあかした。朝になっても、夢のことが気になってならないのだった。考え込んでいると、母親が、
「おまえ、今日はどうしたのです」
といった。
「いつもとちがって、浮かぬ顔をしておいでだね。わたしがいつまでもあの世へ行かないので、孝行することがいやになってきたのではなかろうね」
「いいえ、そんなことがあるはずはありません」
李義はそういって、昨夜の夢のことを話した。すると母親は笑って、
「夢のことなんか気にするのはおかしいよ。そんなこと、忘れてしまいなさい」
といった。
それから数日たったとき、李義はまた夢で母親を見た。母親は門の前で泣きながら、胸をたたいてくやしそうにこういった。
「おまえは、わたしの子じゃないか。それなのに、どうしてこんなひどい親不孝をするのです。わたしを葬ったまま、いちどもお詣りに来ず、犬を大事にしているなんて。もしわたしが天帝さまに訴えたら、おまえは天罰を受けるにきまっているけど、不孝者とはいえおまえはわたしの子だから、天帝さまに訴える前にもういちどだけ忠告しに来たのですよ」
それだけいうと引き返して行った。李義はまたあとを追ったが、前のときと同じでいくら走っても躰が前に進まず、追いつくことができないのだった。
李義はそこで、夜のあけるのを待ちかねて母親を葬った墓へ行き、供え物をして祈った。
「お母さんをここへ葬ったことは確かです。葬った以上、お母さんの霊をお祭りすることは、子として当然しなければならないことです。ところがお母さんは、わたしがお母さんをここに葬った日に、また生き返って家にもどって来てくださいました。そのためにお墓の方のお祭りはせずに、家でお母さんに孝養(こうよう)をつくしているのです。それなのに夢の中でお母さんにお叱(しか)りを受けると、わたしはどうしたらよいのかわからなくなってしまいます。夢の中のお母さんがほんとうなのか、家におられるお母さんがほんとうなのか、わたしには何が何だかわからなくなってしまいます。夢の中のお母さんのおっしゃるとおりにすれば、家におられるお母さんのお気持をそこねることになりますし、家におられるお母さんのおっしゃるとおりにすれば、夢の中のお母さんのお叱りを受けることになります。子としてどうしたらよいのか、わたしはわからなくなってしまいます。ただ、わたしが親不孝でないということは天帝さまにはおわかりいただけると思うのですけれど」
李義が墓から家に帰ると、母親が出迎え、
「夢にまどわされて、空(から)のお墓へ行くなんて、そんなことをしてはいけません」
といった。
「わたしはいちど死んでからまた生き返り、それからはおまえと二人でずっと仲よく暮らしてきたではありませんか。それなのに、夢に心をまどわされ、家にわたしがちゃんといるにもかかわらず、空のお墓へ行ってお供え物をしたりなんかして、そんなことをされてはわたしはまた死んでいくよりほかにしようがないじゃありませんか」
そういうなり、崩れるように倒れて、そのまま息絶えてしまった。李義は何日間も号泣しつづけたが、とにかく埋葬しなければならぬと思い、その準備のために気をとりなおして墓へ行き、空のはずの棺をあけてみると、母親の死体はちゃんと中におさまっていた。いったいこれはどうしたことだ、自分はまた夢を見ているのではないかと、家に駆けもどってみると、家の中にも母親の死体は出かけたときのままで横たわっていた。いよいよおどろきうろたえ、
「お母さん……」
と声をかけたとたん、死体は一匹の黒い老犬に姿を変え、ぱっと外へ飛び出したままどこへ行ったのかわからなくなってしまった。
唐『大唐奇事』