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中国怪奇物語081

时间: 2019-05-28    进入日语论坛
核心提示:  邯鄲夢の枕 邯(かん)鄲(たん)の城外の、街道沿いのまずしい旅籠(はたご)屋(や)の店さきに、一人の道士が休んでいた
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   邯鄲夢の枕
 
 
 
 
 邯(かん)鄲(たん)の城外の、街道沿いのまずしい旅籠(はたご)屋(や)の店さきに、一人の道士が休んでいた。
 道士は名を呂(りよ)翁(おう)といった。頭巾をぬぎ、帯をゆるめ、荷物の袋にもたれかかって休んでいると、村の若者が通りかかった。
 若者は呂翁を見ると、自分も一休みしようと思い、店の中へはいって呂翁と並んで腰をおろした。
 若者は名を盧(ろ)生(せい)といった。盧生は呂翁が気にいったと見え、なんの屈託もなくあれこれと話しかけていたが、しばらくすると、ふとため息をつき、
「あたら男に生れながら、こんなまずしいくらしをしているとはなあ」
 と、自分のみすぼらしい身なりをふりかえっていった。
「見たところ、丈夫な身体(からだ)にめぐまれているようだし、さっきまでは楽しそうに話をしていたのに、急になにを言い出すんだね」
 と呂翁がいうと、盧生は、
「なにが楽しいものか。こんな貧乏ぐらしが」
 といった。
「働いても食えないのかねえ」
「食えるには食えるさ」
「その上、丈夫な身体にめぐまれていて、なんの不足があるのだね」
「男と生れたからには、功を建て名を揚げ、出(い)でては将(しよう)となり入りては相(しよう)となり、世に時めいて家門を繁栄させてこそ、満足といえるのですよ。わたしはそのつもりで、学問もし諸芸も習ったが、事(こと)志(こころざし)とはちがって、いい年になりながらいまだに田畑であくせく働いている始末だ。愚痴も出ますよ」
 そういったとき、盧生は眼がくらんできて、呂翁の顔が遠くへかすんでいくような気がした。
 このとき、宿の主人はちょうど黍(きび)餅(もち)を蒸しているところだった。
「どうしたんじゃな」
 と呂翁がきいた。盧生が、
「なんだか急に眠たくなってきて……」
 というと、呂翁は荷物の袋の中から青磁の枕を取り出して、
「眠たくなったのなら、さあ眠るがよい。わしの枕を貸してあげよう」
 といった。両端に穴のあいている枕だった。盧生がそれに頭をのせると、ひやりとして心地よかった。穴を覗(のぞ)いてみると、だんだん明るくなり大きくなってきた。身体ごともぐりこんでいくと、家があったので、その中へはいっていった。
 それから数ヵ月後、盧生は清河の名家崔(さい)氏に見こまれて、その娘を嫁にもらった。娘は美しく、それに莫大な財産があったので、盧生はにわかに金持になり、豪華なくらしをするようになった。
 幸運というものは、一度つかめばその幸運がさらに幸運を招くのか、盧生は翌年、進士の試験に合格し、それからはとんとん拍子に出世をしていった。はじめは県(けん)尉(い)として陝(せん)西(せい)の渭(い)南(なん)へ赴任したが、まもなく抜(ばつ)擢(てき)されて監(かん)察(さつ)御(ぎよ)史(し)になり、さらに起(き)居(きよ)舎(しや)人(じん)になって詔勅をあつかう身になった。三年後には、陝西の同州へ刺(し)史(し)(州知事)として転出し、さらに河南の陝州の刺史に移った。盧生は土木工事を好み、陝州の西から八十里にわたる運河を開いて、交通機関のないところに船を通わせるようにしたので、土地の人々は感謝して碑(いしぶみ)を建て、その功績をたたえた。その後、河南道採(さい)訪(ほう)使(し)に昇進し、再び都へ召し帰されて、こんどは京(けい)兆(ちよう)尹(いん)に任ぜられた。
 その年、西北の辺境へ吐(と)蕃(ばん)が大挙して侵入し、節度使を殺して大いに地を奪った。盧生は特に選ばれて河西節度使になり、吐蕃の軍勢を大いに破って、敵の首を斬ること七千、九百里のさきまで領土を広め、三つの大城を築いて要地をかため、辺境の地を安からしめた。そのため辺境の人々は居延山に碑を建て彼の功績をたたえた。
 都へ凱(がい)旋(せん)すると論功行賞がおこなわれて厚い恩賞を受け、まもなく吏(り)部(ぶ)侍(じ)郎(ろう)に任ぜられ、さらに戸(こ)部(ぶ)尚(しよう)書(しよ)兼御(ぎよ)史(し)大(たい)夫(ふ)に昇進したが、その清廉で重厚な人柄のために上下の人望が高まるにつれて、おのれの地位を奪われることをおそれた時の宰相にうとまれて、広東の端州の刺史に左遷された。
 盧生は身の不運をなげき、鬱々としてたのしまなかったが、三年たつと、彼をうとんじた宰相が失脚したため、呼びもどされて天子の侍従になり、まもなく同(どう)中(ちゆう)書(しよ)門(もん)下(か)平(へい)章(しよう)事(じ)に任ぜられた。ついに宰相の職にのぼったのである。以来、天下の大政をとること十年、よく天子を補佐して善政をおこない、名宰相とうたわれた。
 ところが、そのためにかえって同僚のねたみを買い、「辺境の将軍たちと結んで、謀(む)叛(ほん)をたくらんでいる」と密告されて、にわかに身があやうくなった。盧生を糾明せよとの勅令がくだって、役人が彼を逮捕に向ったことを知ると、彼は泣いて妻にいった。
「わしは道をあやまった。山東には家もあり、田も五反ばかりあって、飢えや寒さをしのぐには十分だったのに、なにを好んでわざわざ役人になどなったのだろう。こんなことになるくらいなら、ぼろを着て百姓をしていた方がどんなによかったかとくやんでも、いまとなってはもうどうにもならん」
 そういって、刀を抜いて自殺しようとしたが、妻に止められて死ぬことができず、捕吏にとらえられて獄に投ぜられた。そのとき同罪に問われた者はみな死罪になったが、彼だけは、権力のあった宦(かん)官(がん)がかばってくれたために罪一等を減ぜられて越南の地へ流された。
 それから数年、盧生は無実の罪でこのまま越南の地に果てるのかと、世をはかなみつづけたが、五年たったとき、天子は彼の無実であったことを知って、中(ちゆう)書(しよ)令(れい)として復帰させた上、燕(えん)国(こく)公(こう)の爵位をたまわった。はからずも彼はまた、位(くらい)人臣をきわめる身に返り咲いたのである。
 以来また十年、彼は宰相として世に時めいた。彼には息子が五人いたが、みな高位高官にのぼり、それぞれ天下の豪族の娘を娶(めと)って、孫も十人を越え、一門は大いに栄えた。
 彼は豪(ごう)奢(しや)な生活を送って、奥には幾人もの美女をかこっていたが、寄る年波には勝てず、やがて八十を越えると、筋骨すべて衰えて起居もままならず、もはや死を待つばかりの身になった。
 その間、彼はなんども天子に辞職を願い出たが許可されなかった。衰弱がひどくなると、見舞いの勅使が引きもきらず、名医が派遣され、高価な薬が下(か)賜(し)されたが、衰弱は日ましにはげしくなっていくばかりであった。彼はもはや死をまぬがれることができぬとさとると、上奏文を書いて天子に大恩を謝した。すると天子は詔勅をくだして彼の屋敷に勅使を遣わされたが、その日の夕刻、彼はついに息を引きとった。
 そのとき盧生は、あーっと大きなのびをして眼をさました。見ればわが身は旅籠屋の店さきに寝そべっていて、かたわらには呂翁が坐っている。
 宿の主人の蒸していた黍餅はまだ蒸しあがっておらず、すべてはもとのままである。
 盧生はあわてて起きあがっていった。
「なんだ、夢だったのか!」
 すると呂翁が笑いながらいった。
「なにをあわてているのだね。人生の苦楽というものははかないものさ」
 盧生はしばらくぼんやりしていたが、やがて立ちあがって呂翁に礼をいった。
「ありがとうございました。名誉と恥辱、困窮と栄達、成功と失敗、死と生、それらの道理をすべてさとることができました。先生はわたくしに、わたくしのつまらぬ欲望を捨てるようにおさとしくださいましたのですね。ありがとうございました。ご教訓は深く心にしみとおりました」
 そして丁寧にお辞儀をして、店を出ていった。遠ざかっていく盧生の姿は、いかにもすがすがしく見えた。呂翁はうなずきながら枕を袋の中にしまうと、その袋によりかかってうつらうつらと眠りだした。
唐『枕中記』 
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