開州の軍将の冉(ぜん)従(じゆう)長(ちよう)は、財を軽んじて賢能の士を重んじるふうがあったので、その門には多くの人材が集った。
その中に〓(ねい)采(さい)という画家がいて、あるとき、竹林の七賢人の絵をかいた。なかなか見事な出来栄えで、主人の冉従長をはじめ、みなが感嘆して眺めていると、客の中に柳(りゆう)城(じよう)という秀才がいて、
「形はよくできているが、心が表現されているとはいえませんな」
といった。冉従長がそれをききとがめて、
「なに、心があらわれていないといわれるか」
というと、柳城はうなずいて、
「左様。なんならわたしがこの絵をなおしてみましょうか。そうすれば、わたしのいうところもわかっていただけるかと思います」
といい、〓采に向って、
「かまいませんか」
といった。
「おもしろい。なおして、その心とやらいうものがあらわれるものなら、それを見せてもらいましょう」
〓采がそういって絵筆をさし出すと、柳城は手をふって、
「いや、筆はいりません。わたしはこの絵に筆を加えずに、しかも一層の精彩を添えてごらんにいれます」
という。冉従長があきれて、
「なにをいわれる! あなたがいかに多才な人であろうと、筆を加えずにこの絵に精彩を添えるなどということが、できるわけはない」
というと、柳城は悠然として、
「いや、できます」
と言い放った。
「ふむ、おもしろい。気合でもかけてなおそうというのですか」
「いいえ、わたしはこの絵の中へはいっていって、なおします」
すると、日ごろ柳城となにかにつけて競(きそ)いあい、いがみあっている郭(かく)萱(せん)という秀才が口を出して、
「おい、子供だましのようなことをいうものじゃないぞ。絵の中へはいっていくなんてことが、できるわけはないじゃないか。筆でなおすことができないもんだから、言い逃れをしてごまかそうとしている!」
といった。
「言い逃れやごまかしではない。わたしにはできるのだ」
と柳城はいう。
「できるわけがない」
「できるのだ」
「いや、できるわけがない」
「それでは賭(かけ)をしよう」
と柳城がいった。
「よろしい。銭五千を賭けよう」
「おもしろい。わたしもできぬという方に賭けよう」
と冉従長もいった。
すると柳城は立ちあがって、絵の掛けてある壁の方へ歩み寄った。しばらく彼はその前に立っていたが、客たちが見まもる中で、やがて絵に向って身を躍(おど)らせた。と、忽(たちま)ちその姿はどこかへかき消えてしまったのである。
みなはおどろいて、部屋の内外をさがしまわったが、柳城の姿はどこにも見えなかった。しばらくすると、絵の中から柳城の声だけがきこえてきた。
「おい、郭君。なにをうろうろしているのだ。これでもまだわたしが言い逃れをいっているというのか」
一同はいよいよおどろいて絵を覗(のぞ)きこんだが、絵にはなんの別状もないようであった。
「どこへ姿をかくしたんだ。絵の中にも姿は見えぬじゃないか。それでは絵の中へはいっているという証拠がないじゃないか」
と郭萱が叫んだ。その声につられて、みんなは口々にさわがしく喋りだした。するとまた、絵の中から声がきこえてきた。
「うるさいな。そんなにがやがやいわれると、落ちついて絵をなおすこともできぬじゃないか」
「それが言い逃れだ」
と郭萱が言い返すと、
「なんとでもいうがよい。いまにわかるから」
という柳城の声がきこえ、しばらくすると絵の中から柳城が躍り出てきた。
「あまりさわがしいので、それに、みなさんの方でも待ちどおしいだろうと思いましたので、ただ、あれだけをなおしてきました」
柳城はそういって、七賢人のうちの阮(げん)籍(せき)の絵を指さした。見れば、確かに阮籍の絵だけがもととはちがっていた。阮籍は〓采がかいた姿とはちがって、嘯(うそぶ)くように天を仰いでいたのである。
「いかがですか」
と柳城は〓采に向っていった。
「なるほど……」
〓采はしばらくのあいだ、なおされた阮籍の絵に見入っていたが、やがて口をついでいった。
「……あのようにすれば、確かに心まであらわされる。なるほど。わたしの未熟だったことが、これでよくわかりました。ほかの六人についてもお教えください」
「いいえ、それには及びません。もうわたしがお教えしなくても、あなたは十分に会(え)得(とく)なさったはずです」
柳城が冉従長と郭萱から銭五千の賭(かけ)金(きん)を受け取らなかったことは、いうまでもない。
それから数日後、開州の町にこの噂がひろまると、柳城は冉従長が再三引きとめてもきかず、その門を辞去した。
その後は柳城のゆくえを知る者はなかった。
唐『酉陽雑俎』