広州に、母親と二人暮しの何(か)二(じ)娘(じよう)という娘がいた。年は二十(はたち)。清楚な美人だったので方々から縁談があったが、何二娘はことわりつづけていた。
親子は絹の鞋(くつ)をつくって暮しをたてていた。女二人でつくる鞋の数はたかが知れていたが、出来がよいという評判で、数がすくないだけに余計に珍重されて、高く売れた。よい鞋だという評判がたちだしたのは、何二娘が母親といっしょにつくるようになってからだった。二人で向いあって鞋をつくりながら、母親はよく何二娘に、
「お前は天から授かった子だよ」
といった。
そのいわれは、こうである。母親がまだ娘のときだった。一人で山へ薪を取りにいったところ、あやまって谷底へころがり落ち、そのまま長いあいだ気をうしなっていた。不思議にかすり傷一つなかった。さらに不思議なことには、気がついたとき、自分の横に赤ん坊が寝ていたのである。可愛い赤ん坊だったし、見捨てて帰るわけにもいかなかったので、拾ってきて育てた。それが何二娘だというのである。
誰もその話を信じなかった。父(てて)なし子を生んだことが恥かしくてつくり話をしているのだ、と思われているようであった。何二娘もはじめはそう思っていたが、なんども聞かされているうちに、次第に信じるようになっていった。
ある日、何二娘は母親にいった。
「わたしが天から授かった子だということ、ほんとうだったのね。わたし、空を飛べるということがわかったのです」
「二十にもなって、お前、なにを言ってるのだね。天から授かった子というのは、たとえ話だよ」
「いいえ。ほんとうに、わたし、空を飛べるのです。飛べるとわかったら、遠くへ行ってみたくなって、どうしようもないの。ねえ、行ってもいいでしょう?」
「毎日、鞋ばかりつくっていて、気がくさくさするのだろう。どこかへ行ってみたくなるのも無理はないけど、お前が行ってしまったら、わたしは一人で暮していかなければならないじゃないか」
「遠いところへお嫁にいったと思えばいいでしょう」
「わたしに、一人で鞋をつくって、一人で暮していけというのかね?」
「鞋なんかもう、つくらなくていいわ。わたし、ときどき帰って来て、お母さんがちゃんと暮していけるようにするから」
母親はまさかと思っていたが、翌日になると、何二娘はいなくなっていた。
何二娘は空を飛んで、羅(ら)浮(ふ)山へ行ったのだった。以来、山頂の寺に住み込んで、飲食は一切せず、毎日寺の人々のために山中の木の実を取って来てお斎(とき)をつくったり、寄せ集めのぼろ布で鞋をつくったりしていた。
寺の人々は不思議に思ってたずねた。
「あなたは、どこで食事をしているのです?」
「山の中で」
「木の実などを食べているのですか」
「いいえ、山の気を吸っております」
「お斎の木の実などを、あなたはどこから持ってくるのですか」
「山の中から」
ある日、何二娘が楊(よう)梅(ばい)の実をたくさん持って来たので、またたずねた。
「これはどこにあったのです?」
「循(じゆん)州(しゆう)の山に」
循州は羅浮山の北にある町で、南海からは四百里もへだたっている。その循州の山寺に幾抱えもある楊梅の大木があった。何二娘はその実を取って来たのだった。
「わずかのあいだに、循州へ行ってまた帰って来ることができるはずはありません」
「それなら、ほかの山かもしれません」
その後、循州の山寺の僧が羅浮山に来て言った。
「先ごろ、仙女がわたくしどもの寺に舞いおりて、楊梅の実を取ってゆきました。たいへんな吉祥です」
顔かたちをきいてみると、何二娘にまちがいなかった。そのときはじめて寺の人々は、何二娘が仙人であることをさとった。
仙人であることを知られると、何二娘は寺には住まなくなった。しかし、ときどき珍しい木の実などを寺の人々にとどけることはあった。
何二娘の噂が都につたわると、天子は勅使を広州へつかわしてさがさせた。勅使はなかなか何二娘をさがし出せなかったが、やがて、何二娘が月に一度は母親をたずねるということを知って、さがさずに待つことにした。
「天子さまが、お前に会いたいとおっしゃっているのです。わたしのためにもお勅使について都へ行っておくれ」
母親は勅使の前で何二娘にそう言い、そして、耳もとに口を寄せて言い足した。
「お前は空へ飛びあがることができるのだから。いやなことがあったら、そうすればいいのだから」
何二娘は笑って、うなずいた。
こうして何二娘は勅使といっしょに都へ上った。ところが、その途中、勅使は何二娘の美貌に心を惹かれて、ふと、このような女と……、と思った。その途端に何二娘が言った。
「あなたのようなみだらな方と、ごいっしょすることはできません! 天子さまにこうおっしゃい、——わたくしがみだらな心をおこしましたために、何二娘は来ませんでしたと」
そういうなり、ぱっと空へ飛びあがって、たちまちその姿は見えなくなってしまった。
その後、何二娘はどこへ行ったかわからない。母親のところへは毎月とどけものがあったが、俗界に姿をあらわすことは、ついになかった。
唐『広異記』