鼎(てい)州の開(かい)元(げん)寺(じ)にはいつもたくさんの客が寄寓していた。ある年の夏、数人の客が寺の門前で涼(すず)んでいると、そこにある井戸へ一人の女が水を汲みにきた。なかなか美しい女だった。
客の一人に、いささか術を心得ている者がいて、たわむれに術をかけると、女の水(みず)桶(おけ)がぴたりと動かなくなってしまった。すると女は、その美しい顔をくもらせて、
「おからかいになっては、いけません」
といった。男がそしらぬ顔をして、術を解(と)かずにいると、
「およしなさい!」
と女はいった。その声には、美しい女の口から出たとは思えぬほどの、鋭いひびきがあった。男はちょっとたじろいだが、相手が女なので、たかをくくってなおも術を解かずにいた。
「仕方がありません」
女はそういうと、やにわに荷(にな)い棒を地に投げた。と、棒はたちまち蛇になった。男はそれを見ると、懐から粉をかためたようなものを取り出して地面に二十あまりの輪をかき、そのまんなかに立った。蛇は男の方へ進んでいったが、輪のところまでいくとそれを越えることができず、いたずらにそのまわりをまわるだけであった。
すると女は、口に水をふくんで蛇に吹きかけた。たちまち蛇は数倍の大きさになり、男にむかって鎌首をもたげた。
「いたずらはもう、おやめなさい」
と女はそのときいった。しかし男は平然と輪のまんなかにつっ立ったまま、こたえなかった。蛇は外側の輪を越え、なんなく十五、六番目の輪まで進んだ。
「まだやめませんか」
男が黙っていると、女はまた口に水をふくんで吹きかけた。蛇はこんどは椽(たるき)ほどもある大蛇になって、するするとまんなかの輪まで進んだ。
「まだやめないのですね」
女はその美しい顔に妖しい笑いをうかべていった。男は今となってはあとへ引くこともできず、
「やめぬ」
といいかえした。と、蛇はたちまち男の脚に巻きつき、みるみるうちに頭の上まで巻き上っていった。男の苦痛のうめき声がきこえた。——今に骨をくだかれて死んでしまうのであろう。見ていた客たちはおどろき、あわてた。
「助けてやってくれ!」
と一人が叫んだ。すると女は、その男をふりかえって笑った。
「あわてることはありません。こらしめただけです」
女が手をのばすと、大蛇はたちまち小さな蛇になって男の首のあたりをはいまわった。女はそれをつまみ取って、地面へ捨てた。蛇は地面へ落ちると、たちまちもとの荷い棒になった。
見守っていた人々はみな大きく息を吐いて、あらためてその美しい女を見た。女は、蒼白になってふるえている術をかけた男にむかっていった。
「あなたはまだ未熟なくせに、どうしてあんないたずらをするのです。術はいたずらをするためのものではありません。わたしだからよかったものの、ほかの術者にあんないたずらをしたら、きっと殺されてしまいますよ。これからは、つつしみなさい。きょうのことはゆるしてあげます」
男は深く頭を垂れてあやまった。女はなにごともなかったように、例の荷い棒で水桶をかついで立ち去っていった。男はそのあとを追っていって、女の弟子になったという。
宋『夷堅志』