蒋(しよう)子(し)文(ぶん)は広陵の人である。酒好きで、女好き、その上、軽率で、なにをしでかすかわからぬという男であったが、日ごろから、
「おれは生きているうちは大官になれぬが、おれには神骨がそなわっているから、死んだら神になるはずだ」
といっていた。
建康で刑獄の官をしていたとき、賊を追いかけて鐘山の麓までいったところ、賊はふりかえりざま斬りつけて子文の額に傷を負わせた。従者がいそいで手当てをしたが、子文はまもなく死んでしまった。
それから数年たったとき、かつて子文の部下だった男が、道で子文に出会った。白馬にまたがり、白扇を持ち、生前と同じように従者をつれている。おどろいて逃げだすと、子文が追いかけてきて声をかけた。
「おれはここの土地神になって、世の人々に福をさずけてやろうと思っているのだ。お前は土地の人々にふれまわって、おれのために祠(ほこら)を建てさせろ。さもないと、ただではおかぬぞ」
その年の夏、この地方に悪疫が流行した。人々は子文のたたりだとおそれたが、朝廷で認められていない神を祭れば刑罰を受けることになるので、祭るわけにはいかなかった。しかし、ひそかに家の中に子文を祭るものも出てきた。すると子文は、こんどは巫女に乗りうつっていった。
「わしのために祠を建てよ。さもないと人々の耳の中へ虫をとびこませて禍(わざわい)をおこしてやるぞ」
はたして、あぶのような小さい虫が人々の耳の中へとびこみ、とびこまれた者は一人残らず死んでしまって、医者もどうすることもできない。人々はいよいよ子文のたたりをおそれ、ひそかに祭る者の数はさらにふえたが、朝廷ではなおも祠を建てることをゆるさなかった。すると子文はまた巫女に乗りうつっていった。
「祠を建てぬのなら、こんどは大火事をおこしてやるぞ」
はたして、その年には火事が続発し、その数は一日に数十ヵ所にものぼる始末。やがて火はついに宮殿にまで及んだ。
「亡魂は落ちつく場所さえあればたたりをしなくなるものです。早く亡魂をなだめ鎮めた方がよいでしょう」
そう進言する者があって、朝廷では子文を中都侯に封じて鐘山に廟を建てた上、鐘山を蒋山と改称した。すると、災害はぴたりとやんだ。
以来人々は子文を蒋侯神と呼んで、大切に祭るようになった。廟は今も建康の東北の蒋山にあって、人々に尊崇されている。
六朝『捜神記』