壺(こ)公(こう)は、その姓も名も知られていない。だが、いま世に行われている召(しよう)軍(ぐん)符(ふ)とか召(しよう)鬼(き)神(しん)符(ぷ)とか治(ち)病(びよう)玉(ぎよく)府(ふ)符(ふ)とかの秘法は、すべてこの人によってはじめられたというので、壺(こ)公(こう)符(ふ)と総称されている。
あるとき壺公は汝(じよ)南(なん)へ行って薬屋を開いたが、彼が仙人だということは誰も知らなかった。彼の売る薬は安く、しかも、どんな病気でも必ずなおるのだった。彼は薬を買った者に対して、その薬を飲むと何を吐き出すかを教え、いつ病気がなおるかを示したが、すべてそのとおりになった。
そのために彼の薬はよく売れて、毎日、数万銭の収入があったが、彼はそれを町の貧乏な人たちに施して、手もとにはほんの四、五十銭残しておくだけだった。
彼が住んでいる家の天井には、壺が一つ吊り下げてあった。日が暮れると彼はその壺の中へ飛び込んでしまうのだったが、誰もそのことは知らなかった。費(ひ)長(ちよう)房(ぼう)という一人の町役人のほかは——。
役所の二階から、偶然それを見た費長房は、薬売りが凡人ではないことを知ったのである。それ以来、長房は毎日壺公の店の前を掃除したり、食べ物をとどけたりした。壺公は受け取りながら、挨拶もしない。だが長房はせっせとそれをつづけた。長いあいだつづけながら、しかも何も要求しようとはしなかったのである。
壺公は長房のまごころを認めたのであろうか、ある日、はじめて長房に口をきいた。
「日が暮れて、人通りがなくなったころ、またおいで」
長房がその時刻に行ってみると、壺公は、
「わたしが壺の中へ飛び込むのを見たら、あなたも真似をしてみなさい。そうすれば、あなたもわけなくはいれるはずだ」
といった。長房がいわれたとおりにしてみると、いつのまにか壺の中にはいっていた。
はいって見ると、それはもはや壺ではなく、そこは仙宮の世界だった。高い宮殿や楼(ろう)門(もん)がそそり立ち、二階造りの長い廊下などがあり、壺公の左右には数十人もの侍者がひかえているのだった。茫然としている長房に向って壺公がいった。
「お察しのとおり、わたしは仙人です。むかしは天界の役人だったのだが、役目怠慢のお咎(とが)めを受けて人間界へ流されているのです。あなたは見込みのある人だ、だからこそわたしにめぐり会うことができたのでしょう」
長房は席からすべり下りて叩(こう)頭(とう)しながらたのんだ。
「凡俗の身でございますが、せいいっぱいお仕(つか)えいたしたいと思います。どうかよろしくご指導くださいますよう」
その後、壺公は役所の二階へ長房をたずねて行って、こういった。
「酒が少しあるから、ここでいっしょに飲みましょう。酒壺は下に置いてある」
長房は部下の者をやって運ばせようとしたが、小さな酒壺なのに持ち上げることができない。数十人かかっても動かすこともできないのだった。長房がそのことをいうと、壺公は自分で下へ降りて行き、指一本でぶら下げてきて、長房といっしょに飲んだ。拳(こぶし)ほどの大きさの酒壺だったが、日暮れまで飲み、部下の者にもふるまったが、酒はなくならなかった。飲みながら壺公はいった。
「わたしは旅に出るつもりだが、あなたはどうします? いっしょに行く気はないかな」
「いいえ。お供をさせていただければ、こんなしあわせはございません。ただ、家族の者には知られないように立ちたいと思うのですが、何かよい方法はございませんでしょうか」
「ある」
壺公はそういって、どこから取り出したのか、青竹の杖を一本、長房に渡し、
「これを持って家に帰り、病気だといってこれを寝台の上に置いて、そのままもどってくればよろしい」
といった。
長房はいわれたとおりにして、役所の二階にもどってきた。
長房がもどってきたあと、家族の者が見ると、長房は寝台の上ですでに死んでいた。家族の者は泣きながらその死体を葬った。
壺公といっしょに旅に出た長房は、夢うつつのうちに、どこともわからない場所に着いていた。ふと気がつくと、虎の群の中に入れられていたのである。虎は牙(きば)を鳴らし、口をあけて長房に噛みつこうとした。だが長房はおそれなかった。
すると、こんどは石室の中にとじ込められた。頭の上には広さ数丈の四角い石が茅(かや)の縄で吊り下げてあった。見上げていると無数の蛇が集ってきて縄を噛みだした。縄はいまにも切れそうに見えた。だが長房は平然としていた。
しばらくすると壺公があらわれ、長房の背をなでながらいった。
「うん、見込みがあるぞ」
そしてこんどは糞を食べさせようとした。見れば長さ一寸ほどの蛆(うじ)虫(むし)がわき出していて、ひどい悪臭を放っている。長房が手を出しかね、目をつぶり息をつめていると、壺公は嘆息をもらしていった。
「まだ俗(ぞく)気(け)が残っている。仙人になることはもうあきらめた方がよい。わたしも、あきらめよう。そのかわりに、あなたに神術をさずける。あなたは数百歳の長寿を保つことができるだろう」
そして護符のことを記した一巻の書物を与えて、
「これを持っておれば、鬼神たちを臣従させることができる。病(やまい)になやんでいる者や災(わざわい)にくるしんでいる者があれば、鬼神たちを呼ぶがよい。その鬼神たちによってあなたは、病をいやし災を除くことができる」
といい、さらに一本の竹の杖を渡して、
「これに乗れば俗界へ帰れる。では、元気でな」
といった。長房は否(いや)も応(おう)もなかった。その竹の杖にまたがって別れを告げたが、夢からさめたような気がしたときには、もう家に帰り着いていた。
家族の者たちは亡霊だと思ったが、長房がこれまでのことをくわしく話すのをきいて墓をあばいてみた。すると棺の中には青竹の杖が一本はいっているだけだったので、ようやく長房のいうことを信じた。
長房は壺公のもとから乗ってきた竹の杖を、汝南の郊外の葛(かつ)陂(ぴ)の沼へ投げ入れた。そこには竜神がいるといわれていたからである。杖は沼に浮かぶと青い竜に変って沈んでいった。
また、長房は壺公について家を出てから家にもどるまでを、ほんの一日だと思っていたが、家族の者にきいてみると、一年もたっていたのだった。
長房は家にもどってからは、護符を用いて人の病をなおしたり災をしずめたりした。人と同席しているときにも、ときどき怒ったり叱ったりする所作をするので、わけをきくと、
「妖怪を叱っているのです」
といった。
そのころ汝南には妖怪が出没していたのである。一年に何度かあらわれるのだが、そのときには太守のように騎馬の従者をつれて、行列をつくってきた。ちょうど長房が用事で府の役所へ行っているとき、妖怪があらわれた。妖怪は長房がいることに気づくと、役所の中へはいらずに後(しり)込(ご)みをしながら、機会をうかがっている。長房はそれを見ると大声で、
「あの妖怪どもをただちに召し取れ」
と叫んだ。鬼神たちを呼んだのである。
すると妖怪は車から下りて地面に平伏し、頭をすりつけながら命乞いをした。長房が、
「正体をあらわせ」
とどなると、妖怪は大亀になった。車輪のような形で、首の長さが一丈あまりもある大亀だった。長房は妖怪を再び人間の姿にもどらせた上、鬼神に一枚の護符を渡して、これを葛陂の神のもとへ送るよう命じた。妖怪は涙を流しながら立ち去ったが、あとで人を見にやらせたところ、その妖怪は護符を沼のほとりに置いたまま、木に長い首を巻きつけて死んでいたという。
その後、長房は東海へ行った。東海にはそのとき三年にわたって旱(かん)害(がい)がつづいたからである。長房は鬼神を呼んでいった。
「東(とう)海(かい)神(しん)君(くん)を赦(しや)免(めん)してやれ」
三年前、東海神君が葛陂にきて葛(かつ)陂(ぴ)君(くん)の夫人を犯したことがあった。長房はそのとき鬼神に東海神君を捕えさせたが、罪状が明瞭でないまま監禁しつづけていたのだった。鬼神が東海神君を赦免すると同時に大雨が降りだして、東海地方は長い旱害から救われた。
長房の神術は大地をつなぐ綱を縮めることもできた。従って千里の彼方のものでも眼の前に引き寄せて見ることができるのだった。術を解くと、大地はまたひろがってもとへもどったのである。
六朝『神仙伝』