山東の即(そく)墨(ぼく)にある労(ろう)山(ざん)は、道士たちがいう洞(どう)天(てん)(神仙の住む地)の一つである。即墨に近い莱(らい)郡(ぐん)の李(り)という書生が、この山にこもって書を読み耽(ふけ)っていたが、緑の峰々に月が沈むときや、檜(ひのき)の古(こ)木(ぼく)に雲がかかるときなど、必ず塵(ちり)の世を抜け出したいという思いが胸の底にわきおこってくるのだった。
ある日、一人の道士が李の住(すま)居(い)に立ち寄った。しばらく話をして道士が立ち去ろうとするとき、李はぱっと立ちあがっていった。
「お話をうかがっているうちに、この世が電光石火のようなものであること、人の一生もただ一日ほどの短いものであることが、よくわかりました。これからは世を捨て家を捨て、わが身をも捨てて、先生について修行させていただきたいと存じます」
すると道士は、
「仙道は玄妙深遠で、容易に到達することのできるものではありません。そのようなお言葉は、早計ではないでしょうか」
といった。だが、李がしきりに懇願すると、道士は笑いながらいった。
「初一念はいくらかたくても、後悔するようなことがおこらないとはいえませんぞ。わたしの草庵は山の南側で、ここから数十里のところにあります。明朝、おいでください。弟子にするかどうかは、そのとき決めることにしましょう」
李はよろこんで承知し、翌朝、まだ夜の明けきらぬうちから出かけた。途中、腹が減ってきたので、岩の上に腰をおろして餅を食べていると、前方の深い林の中から人の嘆息するような声がきこえてきた。はっとして立ちあがると、林の中から裸の人影があらわれた。全身に六、七寸の長い黄色い毛が生え、二つの目は人を射すくめるような光を放っている。李は、これは仙人にちがいないと思い、一礼をしていった。
「さいわい仙人さまにお会いすることができました。どうか一言でも、仙道についておきかせくださいますよう」
するとその人は意外なことをいいだしたのである。
「わしは北宋のときの書生だ。むかし世を逃れ家を捨ててここへきたのだが、わしの願いは、白雲に乗り、白い鶴(つる)にまたがって蓬(ほう)莱(らい)の島まで飛んで行き、尽きぬ楽しみを極めることにあった。ところがどうだ、蓬莱の島も、天帝の宮殿も、仙人の都も、どこにあるものやらさっぱりわからぬ。ただ空しく鳥や獣といっしょに住み、木や石を友として、意味もなく生きているだけのことだ。故郷をたずねてみても、様子はすっかり変ってしまっていて、誰もとりあってはくれぬ。ただ老いぼれたこの身一つが残っているだけだ。思えば、おろかな道を選んだものだ。岩壁の下に住みながらそう思うたびに、返らぬ後悔をくりかえしているという始末だ。どうやら貴公も、わしが若かったときと同じ迷いの道に踏み込もうとしているようだな」
そういうと林の中へはいって行ってしまった。李はしばらくのあいだ物悲しい思いに沈んでいた。山奥に分け入ったのは誤りだったのかという思いがしきりにわきおこってくるのだった。だが道士と約束をしてしまったのだから、とにかく会うだけは会わなければならないと思いなおして、重たい足をひきずって行くと、一里も行かないところに道士が出迎えにきていて、
「やっぱりあなたは、世俗の心が絶ち切れませんな。もう、草庵までおいでいただくには及びません」
といった。
李ははっとした。林の中から出てきたあの老人は、道士の化(け)身(しん)だったのである。李は一言もなかった。羞(はず)かしさにうなだれていると、道士は笑いながらいった。
「世俗の人の中では、あなたの心は格別に清らかです。だが、わたしの弟子にすることはできません。そのかわりに、病を避けて寿命を延ばす術をここでさずけてあげましょう」
そしてその術を口づたえに教えて、李が納得したと見ると、
「それだけ覚えておけば十分です」
というなり、もうその姿は見えなくなっていた。
その後、李は郷試に合格して、県学の教官になったが、八十歳を越えても若者のように丈夫で身が軽かった。道士から習った術のおかげだったのであろう。
清『秋燈叢話』