晋(しん)の大司馬(軍政長官)の桓(かん)温(おん)の晩年のことである。
ある日、一人の尼僧が訪ねてきた。会ってみると尋常の尼僧ではなかったので、桓温は鄭(てい)重(ちよう)にあつかい、邸内に住わせた。
やがて桓温は、その尼僧の行動にただ一つ不審な点があることに気づいた。それは、入浴の時間が極めて長いということであった。そこである日桓温は、尼僧が浴室へはいるとすぐ、あとをつけて行って覗(のぞ)いてみた。
尼僧は裸になって浴室へはいると、鋭利な刀を逆手に持って、まず自分の腹を裂き、臓腑をつかみ出した。さらに自分の首を切り落し、手足を切り落したのである。
桓温がおどろいて部屋に逃げ帰ると、しばらくして尼僧がはいってきて、
「ごらんになりましたね」
といった。その姿はもとどおりであった。
桓温がうなずくと、尼僧は、
「何をごらんになりましたか。一つ一つお話しになってください」
といった。
桓温が自分の見たままを話すと、尼僧はいった。
「そのとおりです。もしお上(かみ)を凌(しの)ごうとする者があれば、みな、あなたがごらんになったようなありさまになるのです」
ちょうどそのとき、桓温は帝位を奪うことをたくらんでいて、着々とその準備をすすめていたのだったが、尼僧の言葉をきいて、にわかにその気持がくじけた。以来、桓温は行動をつつしみ、臣節を守りとおした。
その後、尼僧は桓温のもとを立ち去った。尼僧が何者であったのか、どこへ行ってしまったのかは、ついにわからなかったという。
六朝『捜神後記』