会(かい)稽(けい)に、梅(ばい)姑(こ)廟(びよう)という廟がある。
梅姑神はもと馬(ば)という家の娘で、夫になる人がきまっていたが、まだ嫁(とつ)がないうちにその人に先だたれたため、他家へは嫁がぬと心に誓って操(みさお)を立てとおし、十何年間ひたすら死んだ人を慕いつづけたあげく、三十歳で死んでしまったのだった。身うちの人たちがその心をあわれんで建てたのが梅姑廟だといわれている。
それから何百年かたったとき、上(じよう)虞(ぐ)の金(きん)という書生が郷試を受けに行く途中、梅姑廟の前を通りかかった。彼はふとそこで足をとめて試験のことを考えた。そして行きつもどりつ、長いあいだ思いに耽っていた。
その夜、金の夢枕に梅姑神の侍女があらわれていった。
「梅姑神さまのおいいつけで、お迎えにあがりました」
金が侍女のあとについて廟へはいって行くと、梅姑神が出迎えて、頬笑みながらいった。
「あんなに思いをかけてくださって、うれしくてなりません。長いあいだ守りとおしてきた操を、あなたにささげたいと思ってお招きいたしました」
金がうなずくと、梅姑神は急にはじらいを見せて、
「でも、いったんおもどりになってくださいませ。まだお席の用意ができておりませんので。ちゃんとととのいましたら、あらためてお迎えにあがりますから」
というのだった。
そこで目がさめたのである。金には妻があったが、彼はそのとき惜しいことをしたと思った。
その夜、土地の人々は夢の中で梅姑神にいわれた。
「わたしはこのたび上虞の金生員を婿に迎えることにしました。わたしの左側に金生員の像をつくってください」
翌朝、村人たちは夢の話をしあったが、誰もがみな同じ夢を見たことがわかって、男神の像をつくることにきめた。だが、馬の一族の者は、梅姑神の操をけがすことになるといって反対した。するとその日のうちに、馬の一族の者はみな病気になったので、おそれて、村人たちといっしょに男神をつくり、梅姑神の左側にその像を立てた。
その像ができあがったとき、金は妻に、
「梅姑神が迎えにみえた」
といい、衣冠をつけて死んだ。
金の妻は夫を葬った後、梅姑廟へ行き、梅姑神の像を指さして罵った上、さらに祭壇にのぼって何度も頬を打ったという。
今、梅姑神の左側の男神の像は、金(きん)姑(こ)夫(ふ)と呼ばれている。姑夫とはおじさんという意である。
清『聊斎志異』