長安に韋(い)行(こう)規(き)という人がいた。弓矢を取っては並ぶ者なしと自負する血気の若者であった。
あるとき西方へ旅し、夕暮れ、ある宿場に着いたが、彼は宿をとらなかった。しばらく行くと一人の老人が呼びとめた。老人は家の前で桶(おけ)を作っていた。
「もう日が沈みますよ。夜道はおやめになったほうがよいでしょう。このあたりには賊が出ますでのう」
と老人はいった。
「なんの賊などおそれよう」
と韋行規はいいかえした、
「わしには弓がある。わしの弓に敵(かな)う者はいない」
彼はそういって馬を進めた。日が沈み、次第に夜がふけてきたが、なにごともおこらなかった。——賊もわが弓矢におそれをなしたと見える。韋行規がそう思いながらなおも進んでいくと、やがて真夜中と思われるころ、道端の草むらの中から一人の男があらわれた。韋行規はそしらぬふりをして進んでいった。男はあとをつけてくる様子である。
頃あいを見て韋行規は突然一(いつ)喝(かつ)した。
「何者だ!」
だが、男は一言もいわず、そのまま韋行規のあとをつけてくる。韋行規は怒って弓をひきしぼり、ふりかえりざま、男の胸もとめがけて矢を放(はな)った。確かな手ごたえがあって矢は男の胸に命中したはずだったが、しかし男はそのままついてくる。
韋行規はつづけて二の矢を放った。それも確かな手ごたえがあった。三の矢、四の矢、いずれもみな男の胸に命中したはずなのに、男はすこしもひるまず、依然としてついてくる。手持ちの矢を全部射(い)つくしたが、なおも男はついてくる。韋行規はおそろしくなって馬を走らせた。ところが、いくら馬を走らせても、ふりむいて見るといつも男はすぐうしろについているのだった。
なおも夢中で馬を走らせ、しばらくしてまたおそるおそるふりむいてみると、男はもういなくなっていた。ほっと一息ついたとたん、にわかにはげしい風が吹きおこり、同時に天が裂けたかと思うばかりのすさまじい稲妻と雷鳴が眼をくらませ耳を聾(ろう)した。韋行規はころがり落ちるように馬を下り、道端の大木の下へ逃げこんだ。
空中にはまるで鞠(まり)撃(う)ちの杖(つえ)の飛びちがうように稲妻が光って、その光は韋行規の身につきささり、雷鳴は韋行規の身をゆすぶるほどのはげしさであった。雷は次第に下の方へおりてきて、大木の上で光りとどろいた。と、木の葉が散るように何かがばらばらと落ちてきた。それは板切れだった。板切れは雨のように落ちてきて、みるみる韋行規の足をうずめ、膝をうずめ、腰をうずめ、胸をうずめるまでに積(つも)った。韋行規は板切れの中にうずまったまま逃げることもできず、天にむかってしきりに歎願した。
「どうかお助けください。もう弓矢におごるようなことはいたしません。お助けください」
彼はひたすら天を拝みつづけた。拝むこと数十回、ようやく雷鳴は遠ざかり、風もやんだ。身動きもできなかった板切れの中からも、身を抜くことができた。ほっとしてあたりを見まわすと、大木の幹は裂け、枝は折れ、乗ってきた馬の姿はどこにも見えなかった。
もう道を進む気力もなく、韋行規はもときた道をひきかえした。くるときは馬だったが、こんどは徒歩なので、ようやくもとの宿場の見えるところまでもどったときには、すでに夜も明けていた。
宿場のはずれでは、昨日と同じように老人が桶を作っていた。韋行規はその老人が尋常の人ではないと見て、その前へいって丁(てい)寧(ねい)にお辞儀をしていった。
「昨日はせっかくおとめくださいましたのに、高慢なことを申しまして失礼いたしました。おおせのとおり、さんざんな目にあいました」
老人は桶を作る手をやすめて韋行規を見、笑いながらいった。
「弓矢を恃(たの)むのはおよしになることですな。まあ、こちらへおいでなさい」
老人は立ちあがって、韋行規を家のうしろへつれていった。そこには、韋行規の馬がつないであった。
「これはあんたの馬だから、お返しします。さあ乗っていきなさるがよい。わしはただ、ちょっとあんたをためしてみただけです。そうそう、もう一つお見せしたいものがある」
老人が韋行規をつれていった小屋には、桶を作る板切れが積まれていた。それは昨夜、天から降りかかってきて韋行規の身をうずめた板切れだった。そして、さらに韋行規がおどろいたことには、その板切れの幾枚かに彼が昨夜射た矢がささっていたのである。
唐『酉陽雑俎』