江蘇(こうそ)の曲阿(きよくあ)に、秦樹(しんじゆ)という人がいた。
あるとき都へ行った帰り、家まであと数里のところまで来たとき、日が暮れて道に迷ってしまった。
「どこかに人家はないものだろうか」
と、立ちどまってあたりを見まわしていると、かなり離れたところに一つ、あかりが見えた。そのあかりをたよりに道をたどって行くと、山の麓に一軒の家があった。一間(ひとま)きりの小さい家である。
「道に迷った旅の者ですが、宿をお貸しいただけないでしょうか。決して怪(あや)しい者ではございません」
と声をかけると、一人の女があかりを手に出てきて、
「若い女の一人暮しですので、旅のお方をお泊めするわけにはまいりません。どうかあしからず」
と言って、引っ込みかけた。秦樹があわてて呼びとめて、
「夜道を歩こうにも、この暗闇ではどうにもなりません。軒下でもけっこうですから、お貸しいただけるとありがたいのですが」
と言うと、女はあかりで照らして秦樹の風体(ふうてい)を見定めながら、
「書生さんですか」
ときいた。秦樹がうなずくと、女は安心したらしく、
「軒下にお泊りでは、かえってわたしが落ちつけませんから、むさくるしいところですが、どうぞおはいりになってください」
と言った。秦樹はほっとして、
「ありがとうございます。それではおことばにあまえて……」
と、部屋の中へはいったものの、一間きりの家の中で女と顔をつきあわせていては、気楽にからだを休めるわけにもいかない。もしこの女に夫があって、こうしているところへもどってきたりでもしたら、女がいくら弁解しても夫は誤解するだろうなどと思い、
「あの、ほかにどなたか……」
と、口ごもりながらたずねると、女は笑って、
「まあ、何を勘ちがいしていらっしゃいますの。いやですわ、わたしはまだ、一人ですわ」
と言い、
「もらいものですけど、よろしかったら召しあがってください。何も遠慮なさることはございません。どうぞお気楽に」
と、うちとけた態度で料理などを出してすすめた。秦樹は女が自分を誘っているのを感じて、
「お一人とのことですが、わたしも一人者です。夜道に迷ってお泊めいただいたのも縁があってのことでしょう。わたしと結婚してくださいませんか」
と言った。すると女ははにかみながら、
「わたしのような女でもよろしければ、わたしはよろこんで」
と言った。
二人はいっしょに床の中へはいって、情を交(かわ)した。
翌朝、秦樹が女の手を取って、
「一度家へ帰って、必ず迎えにくるからね」
と言うと、女は泣きながら、
「もうこれきりお会いできないような気がして、かなしくてなりません。でも、たとえ一夜かぎりの契りだったとしても、わたし、あなたのようなかたのお情けを受けることができて、しあわせですわ」
と言い、一対(いつつい)の指輪を秦樹の着物のひもに結びつけて、門口まで送り出した。
しばらく行ってから秦樹がふりかえって見ると、昨夜泊った家はなく、そこは大きな墓だった。
家に帰ってから見ると、女がくれた指輪もなくなっていた。だが、着物のひもの結び目だけは女が結んだままであった。
六朝『異苑』