元和年間のことである。
陝西(せんせい)の同州で科挙の予備試験のおこなわれる年で、城内の旅舎はどこも満員であった。王勝(おうしよう)、蓋夷(がいい)の二人は旅舎には泊れず、ようやくのことで、州の功曹参軍(こうそうさんぐん)の王〓(おうしよ)という人の家の一室を借り、試験の期日を待っていた。
二人が部屋を借りるとまもなく、ほかの部屋もみな受験者でふさがってしまったが、正面の広い部屋だけは、細い縄で扉をとざしたままになっていた。
二人が不審に思って窓のすきまからのぞいてみると、部屋の中には粗末な蒲団をかけた寝台が一つと、破れた籠(かご)が一つころがっているだけで、ほかには何もなかった。
「あの部屋には誰がいるのです?」
と隣室の人にきいてみると、
「処士の竇玉(とうぎよく)、字(あざな)は三郎という人が借りているはずです」
と言う。二人は自分たちの借りている部屋が狭いので、竇玉の部屋へ同居させてもらいたいと考えた。
夕暮れになって、竇玉が驢馬(ろば)に乗って帰ってきた。酒のにおいをぷんぷんさせている。二人は進み寄って言った。
「お願いしたいことがあるのですが……」
「何ですか。わたしはあまり人とかかわりあいたくないのですが……」
と竇玉は無愛想に言った。
「わたしたちは州の予備試験を受けにきた者ですが、旅舎はどこもみなふさがっているものですから、ここで部屋を借りました」
「そうらしいですな。それで?」
「借りた部屋が狭くて困っているのです。あなたは受験者でもないようですし、奥様連れでもないようですので、お願いする次第ですが、試験がすむまで、しばらく同室させていただけたら、と思いまして」
「おことわりします。さっきも言ったとおり、わたしは人とかかわりあいたくないのです」
と竇玉はやはり無愛想に言った。
「昼間はたいていお出かけのようですし……。せめて昼間だけでも部屋をお貸しいただけないでしょうか」
「くどい人だな。いやだと言っているのに」
と竇玉は横柄に言った。
その夜、二人はおそくまで書物を読んでいたが、夜もふけてきたので寝ようとしたとき、ふと、どこからかあやしい香気のただよってくるのを感じた。
「なんだろう?」
二人は顔を見合せて同時にそう言い、部屋を出て香気のただよってくるほうへ、足を向けた。どうやら香気は竇玉の部屋からのようである。そっと近づいて行くと、ひそひそとした笑い声や話し声がきこえてくる。女の声のようであった。
窓のすきまからのぞいて見ると、部屋の中は昼間見たときとはうってかわって、四面に薄絹の帷(とばり)をめぐらし、中央の机にはかずかずの美しい皿に山海の珍味が盛られ、年のころ十八、九の世にもまれな美女が一人、竇玉とさしむかいで酒をくみかわしており、かたわらには数人の侍女らしい少女が、なにかと二人の世話をしているのだった。
「夢を見ているわけじゃあるまいな」
と王勝がささやくと、蓋夷も、
「夢ではあるまい。いや、夢かもしれん。中へはいってみよう」
と言った。扉を押すと、わけなくあいた。二人がはいって行くと、女は立ちあがって寝台の帷の向こうへかくれた。つづいて数人の侍女たちもみな帷のかげへかくれて、口々に、
「なんという無礼(ぶれい)な人たちでしょう、他人の部屋へいきなりおし入ってきて」
と言いあっている。
竇玉は青ざめた顔をして、一人じっと机の前に坐っていたが、やがて、
「何をしにきたのです」
ときいた。
「香のかおりにさそわれて、つい、ふらふらときてしまったのです。夢ではないかと思って……夢なら覚めるはずだが……」
「お二人とも、夢を見ているのですよ。それとも寝ぼけているのか……。さあ、これでも飲んで、目を覚ましてお帰りなさい」
竇玉は二人に茶をついで出した。かおりのよい茶だった。二人が飲むと竇玉は、
「さあ、お帰りなさい」
とうながした。
二人が部屋を出て、ふりかえると、扉のしまる音がして、
「礼儀知らずの、あきれた人たちですわね」
と言う女の声がきこえた。
「どうしてあんな人たちと同じ家にいらっしゃるのです? 昔の人が隣を選んで住んだというのは、やはりほんとうに賢明なことなのですわ」
「わたしの家ではないから、ほかの客のことまで口出しすることはできないのだよ」
と言うのは竇玉の声だった。
「科挙の予備試験を受けにきた受験者でね、おそくまで書物を読んでいたと見える。今夜のようなことは二度とあるまいと思うが、いやだというのならほかの家へ引っ越してもよい。さあ、もう機嫌をなおしてくれ」
あとはまた、楽しそうな笑い声になった。
夜があけてから、王勝と蓋夷は竇玉の部屋の前へ行って中の様子をうかがった。ひっそりと静まりかえっていて、話し声も物音もきこえない。窓のすきまから中をのぞいて見ると、昨日の昼間見たのと同じで、寝台があるだけだった。その寝台には竇玉が粗末な蒲団をかぶって寝ていたが、しばらくすると、目をこすりながら起きあがった。二人が窓ぎわからはなれると、まもなく竇玉が扉をあけて出てきたが、二人を見ても知らぬ顔をしている。
「昨夜はどうも……」
と王勝が声をかけると、竇玉は、
「なんですか」
と無愛想に言った。
「美人とお楽しみのところを……」
「なんのお話ですか。おかしなことをおっしゃる……」
「おかしいのはあなたです。あなたは昼間は一人暮しの処士で、夜中になると身分ある家の女と会っておられる。妖術(ようじゆつ)でも使わなければ、あんな美女が呼べるわけはない。ほんとうのことを話してくださらなければ、あなたを妖術使いとしてお役所へ訴えますぞ」
すると竇玉は、はじめて困ったような顔をして言った。
「わけを話しましょう。まあ、部屋へお入りください」
二人は部屋の中へはいったが、机もなければ、掛ける椅子もない。
「昨夜は立派な椅子があったはずだが……」
と王勝が言うと、竇玉は、
「机も、酒肴(しゆこう)もな……。これからそのわけをお話ししようというのです。掛けたければそこへどうぞ」
と二人を寝台の縁に掛けさせ、自分はその前をゆっくりと歩きまわりながら、話しだした。
いまから五年前のことだ。わたしは山西の太原に向って旅をつづけていたが、ある日、冷泉から孝義へ行く途中で日が暮れ、夜道を歩いているうちに道に迷ってしまった。ちょうど大きな荘園があったので、門をたたくと、下男らしい男が門をあけてくれたので、
「旅の者だが、孝義へ行こうとして道をまちがえたらしい。一夜の宿をお願いしたいのだが……」
と言うと、その男は、
「しばらくお待ちください。ご主人にきいてまいりますから」
と言い、もう一人の下男らしい男に何か耳うちした。耳うちされた男はうなずいて、奥へはいって行った。
「ずいぶん大きな荘園のようだが、ご主人はどなたです」
ときくと、はじめの男は、
「汾(ふん)州の崔司馬(さいしば)さまです。ご存じですか」
と言った。
「崔司馬? いや、知らぬ」
わたしはそう言ったが、きいたことのある名のような気もした。そのとき、奥へ知らせに行った男がもどってきて、
「どうぞ、おはいりください」
と言って、さきに立って案内した。
崔司馬は五十歳すぎの、堂々たる容姿の人だった。緋(ひ)の長衣を着て、桃色の衣装を着た二人の侍女にかしずかれている。わたしが名を言うと、崔司馬は父や父の兄弟の名もたずね、さらに親戚のこともきいてから、自分の一族のことも話したが、きいているうちに、わたしの母が崔司馬の姉にあたることがわかった。つまり崔司馬はわたしの母方の叔父(お じ)だったのだ。そういえばわたしも、子供のころから母方に崔という叔父があるときいていたような気がしたが、官職についているとは知らなかった。
「まことに奇遇だ」
と崔司馬は言い、侍女の一人に、
「奥方に伝えてくれ。奥方の甥(おい)がきたとな。右衛将軍をつとめた七郎兄の子で、わしの甥にあたる三郎がきたとな。わしの甥は奥方の甥だ。奥方は三郎の叔母だ。わしたちは遠い土地で役人暮しをしていて、親戚ともすっかり疎遠になっている。旅のついででもなければ、顔をあわせるおりもない。すぐ会ってやってくれとな」
と言った。
侍女はかしこまって出て行ったが、まもなくもどってきて、
「奥方様が、三郎さまを広間へお連れするようにとのことでございます」
と告げた。崔司馬は侍女に、
「広間か。用意はできているのか」
ときき、返事を待たずに立ちあがって、
「さあ、三郎、行こう。そなたの叔母が用意をして待っている」
と言った。
広間の調度や飾りは王侯の住居かと思われるほど贅(ぜい)をつくしていた。中央の食卓には山海の珍味をことごとく集めたかと思われるほどの料理が並べてあった。崔司馬が用意と言ったのは、この宴席のことらしかった。それにしてもわずかなあいだに、これだけの用意ができるのは人間わざとは思えない。わたしは、崔司馬夫妻をよりも、むしろ自分を疑った。夢を見ているのではないかと思ったのだ。
叔母という人も緋の衣装をまとっていた。若々しく美しい人で、やさしくほほえみながら、
「三郎さんですか。お会いできてうれしゅうございます。親戚のかたにはどなたにも久しくお目にかかっておりませんので、さびしくてならなかったところです」
と、いかにもうれしそうに言った。
酒宴がはじまると崔司馬がわたしにたずねた。
「太原へ行くつもりだそうだが、何をしに行くのだ」
「家塾の教師にでもなろうと思いまして。太原でなら、そういう職も得やすいとききましたので」
わたしがそう言うと、崔司馬はまたきいた。
「家塾の教師になどなって、どうしようというのだね」
「科挙を受ける費用をかせぐためです」
「そうか。七郎兄は清廉(せいれん)な武人で、なんのたくわえも残さなかったと見えるな。そなたが家塾の教師をしなければならぬほど困っているとは知らなかった。そなた、妻子はいるのか」
「放浪の身で、まだ妻はございません」
「それならどうだろう……」
崔司馬は奥方のほうをふり向いて言った。
「うちの娘を三郎にめあわせたら」
「わたしも、いま、そう考えていたところなのです。もし三郎さんさえ承知してくだされば、こんな良縁はないと思います」
崔司馬は大きくうなずき、わたしの方をふりかえって、
「親の口から言うのもなんだが、器量よしで気立てのやさしい娘なのだが、このあたりにはふさわしい相手がいなくてな。そなたがもらってくれれば、そなたももう他人にたよって衣食の道を求めるようなことをしなくてもすむし、どうだ、もらってくれるか」
「ありがとうございます。不服のあろうはずはございません」
わたしは立ちあがって、そう言った。そのときわたしは、崔司馬夫妻の申し出を唐突だとも不思議だとも思わなかった。わたしがそう答えたことをもふくめて、はじめからそう定められていたことのような気がして、少しも疑わなかったのだ。
「おお、承知してくださいましたか。娘もどんなによろこぶことでしょう。わたしもこれで安心です」
奥方はうれしそうにそう言い、
「今夜は日がらもよろしいし、作法どおりの宴席もととのっていることですし、親戚のあいだの縁結びゆえ大げさに客を呼ぶ必要もありませんから、婚礼の支度ができ次第、ここで今夜のうちに式をあげてしまいましょう。ねえ、お婿さん、それでよろしいでしょう?」
「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」
わたしは礼を言ってまた席についた。食事がすむと、わたしは西の別棟へ案内された。
「花嫁さまのお支度ができますまで、しばらくここでお休みくださいませ」
と侍女が言った。しばらくすると、
「ご入浴の用意ができましたので、どうぞ」
と浴室へ案内された。入浴をすませると、新しい着物や頭巾(ずきん)が用意してあって、それを着せられた。またしばらくすると、三人の介添え役がはいってきて挨拶をした。三人ともりっぱな風貌をしていた。三人はこの州の役人だといって、それぞれ名を名乗った。
外には新郎新婦の輿(こし)が用意されていた。わたしは輿に乗り、介添え役につきそわれ、あかりを持った行列に先導されて荘園の中を一回りして、中門から奥の棟へ行き、そこで花嫁を迎えた。花嫁はこの世の人とも思われぬほど美しく、わたしはしばらく茫然と見とれていたほどだ。花嫁を輿に乗せると、また荘園の中を一回りして、南門からはいってはじめの広間へあがった。広間にはすでに帷が張りめぐらしてあって、婚礼の用意がととのっていた。そこでわたしはあらためて、崔司馬夫妻に父母に対する礼をおこない、式はとどこおりなくおわった。
式がおわると、わたしたちは新婚部屋へさがって床杯をかわし、そして床入りをした。雨がやみ雲がおさまると、新妻がいった。
「ここは人間の住む世界ではありません。汾州と言いましても、人間の世の汾州ではなくて、冥土(めいど)の汾州なのです。介添え役をした三人も、冥府の役人です。わたしはあなたと夫婦になる前世の因縁がありましたので、こうしていっしょになれたのですけれど、でも、人間と亡霊とは住む世界がちがいますので、あなたはいつまでもここにおいでになってはいけません。すぐにおたちになったほうがよろしゅうございます」
「いやだ。おまえはわたしの心をためそうとして、そんなことを言うのだろう」
わたしがそう言うと、妻は静かに首をふって、
「お願いです。わたしの言うとおりにしてください。あなたのわたしに対するお心がわかればこそ、言っているのです。夜のあけないうちに早くおたちになってください」
「住む世界がちがうものなら、なぜこうして夫婦になれたのだ。夫婦になる前世の因縁があったのなら、なぜ一夜かぎりで別れなければならないのだ」
「わたしはあなたに身も心もささげましたので、住む世界がちがうことは、二人のあいだのさまたげにはなりません。ただ、あなたは生きている人間ですから、ここに長居をしていてはいけないのです。さあ、早くおたちになってください。明日からは、夜だけ、わたしがあなたのおそばへ行きますから。これからは、あなたが持っていらっしゃる箱に、いつも百疋(ぴき)の絹があるようにしておきます。お使いになったら、また入れておきます。あなたはこれからいらっしゃる土地で、どこでもかまいませんから静かな部屋をさがして、お一人でお住いになってください。昼間はおそばへは行けませんが、夜ならいつでも、あなたがわたしのことを思ってくだされば、わたしはあなたのお心に応じてすぐおそばへ行きます。お疑いにならないでください」
「わかった。おまえの言うとおりにしよう。ご両親にお別れを言いたいが……」
「広間でお待ちしているはずです」
妻はそう言い、起きて衣装をつけ、わたしにも着せると、さきに立って広間へ行った。広間には果して崔司馬夫妻が待っていた。わたしが別れを告げると、崔司馬は、
「よく娘の言うことをきいてくれたな。そなたはわたしたちの思ったとおり、よい婿だ」
と言い、そして、
「住む世界はちがうが、心にはなんのちがいもない。娘がそなたの妻になったのは、宿世(すくせ)の縁というものだ。人間でないからといって、疑ったりつれなくしたりしないでほしい。このことは他人には語らないほうがよいが、やむを得ないときには言ってもさしつかえはない。わたしたち夫婦はこれきりもうそなたに会わないが、そなたが娘を裏切らないかぎり、ずっとそなたをまもりつづけるだろう。では、これで別れよう。元気でな」
そう言って、崔司馬はわたしの箱に絹百疋を入れてくれた。
それからというもの、夜になって妻のことを思えば妻は必ず姿をあらわすのだ。昨夜あなたがたが見たのがその妻だ。侍女たちも妻が連れてきたのだし、帷や机や食器や料理なども、すべて妻が持ってきたものだ。こういう生活がもう五年もつづいている。
竇玉は話しおわると、部屋の隅にころがっている籠をあけて見せた。籠には確かに百疋の絹がはいっていた。竇玉はその絹の中から三十疋ずつを王勝と蓋夷とに贈って、
「できれば秘密にしておいてもらいたい。疑う者がいて、なんのかのと詮索(せんさく)されるとうるさいのでな」
と言った。二人は秘密にすることを約束した。
その夜も二人は夜おそくまで書物を読んでいた。だが、昨夜のような香気はただよってこなかった。翌朝、二人が竇玉の部屋をのぞいて見ると、寝台が一つあるきりで、あの粗末な蒲団も破れた籠もなくなっていた。それきり竇玉はどこへ行ったかわからない。
唐『玄怪録』