晋のとき、東平の馮孝将(ふうこうしよう)が、広州の太守になって赴任した。息子の馬子(ばし)も父について広州へ行き、官邸の厩の一室に一人で寝起きしていた。
すると、ある夜、夢枕に十八、九の娘があらわれて、
「わたしは前任の太守の、北海の徐玄方(じよげんほう)の娘でございます。不幸にして若死にをいたしまして、死んでからもう四年になります。わたしは妖怪にとり殺されたのですが、冥府のお役人が帳簿をお調べになったところ、わたしの寿命は八十余歳ということになっておりましたので、お役人はわたしに生き返ることをゆるしてくださいました。ところが、生き返るにはあなたのお力添えがなければいけないのです。わたしはあなたのお力によって生き返り、そして、あなたの妻になることになっております。どうかわたしの願いをおききいれになって、わたしを生き返らせてくださいませ」
「よろしい。わたしにできることならお力添えしましょう」
馬子がそう言うと、娘はよろこんで、さっそく、この世に姿をあらわす日をとりきめた。
約束の日になって、馬子が、娘がどういうふうに姿をあらわすのかと心待ちにしていると、寝台の前の、ちょうど地面と同じ高さの土間から、髪の毛が出てきた。馬子はまさか娘がそんなところからあらわれるとは思わなかったので、下男を呼んで髪の毛を掃(は)き捨てさせようとしたところ、掃けば掃くほど髪の毛は多くなってきた。馬子はそこで、夢枕にあらわれた娘の亡霊が姿をあらわすといったのは、あるいはこのことかもしれないと思い、下男たちを遠ざけて、一人で見守っていると、次第に頭があらわれ、額が見えだし、眼があらわれ鼻があらわれ口があらわれて、顔が見え、肩、腕、胸、胴、腰、脚とつぎつぎに全身があらわれてきた。だが、土が盛りあがったわけでもなく、穴が掘れたわけでもなかった。出てきた娘は、夢枕にあらわれた娘の亡霊と寸分ちがわなかった。
馬子は娘を寝台の上に坐らせて向いあい、いろいろと話をきいたりしたりしたが、娘の言うことはみな、この世の人からはきけないめずらしいことばかりだった。
その夜、娘は馬子といっしょに寝た。だが、馬子が娘を抱こうとすると何の手ごたえもなく、馬子の腕は空(むな)しくもがくような格好になるだけだった。馬子がいぶかると、娘は、
「そっとしておいてください。わたしはまだ魂だけで、実体はないのです」
と言った。
「それでは、いつになったら実体ができるの」
ときくと、娘は、
「いのちのよみがえる日になれば、できます。まだその日がこないのです」
と言った。
娘はそのままずっと、馬子といっしょに厩の一室に住んでいた。娘の姿は馬子には見えたが、ほかの者には見えなかった。ただ、声だけはほかの者にもきこえた。下男たちは馬子の部屋から女の声がきこえてくるので、あやしんでのぞいて見たが、何の姿も見えないので、馬子は気が狂って女の声をまねているのではないかと思った。だが馬子と話してみると、別に狂っているとは見えないので、ふざけているのだろうと思うようになった。
娘はいのちのよみがえる日が近づくと、馬子に、墓から自分の死骸を掘り出して介抱する方法をくわしく教え、
「では、くれぐれもわたしが言ったとおりにしてくださいませ」
と言い残して、部屋から出ていった。
馬子は娘に言われたとおりに準備をし、娘がよみがえると言った日になると、赤羽の雄鶏(おんどり)を一羽、黍飯(きびめし)を一碗、清酒を一升、娘の葬られている墓の前に供え、祭りをしてから、棺を掘り出した。
棺をあけて見ると、娘の死骸は生きている者と同じように肉がついていた。そろそろと抱え出し、毛氈(もうせん)を張りめぐらした帳(とばり)の中へ横たえて、さわってみると、胸のあたりにだけわずかに温(ぬくも)りがあった。口からもかすかに息が漏れていた。
馬子は四人の下女を付きそわせて介抱させ、娘の魂が言ったとおりに、毎日、黒い羊の乳を両方の眼にそそぎかけているうちに、やがて娘は少しずつ口を開いて動かすようになり、やがて粥(かゆ)を飲みこむこともできるようになった。さらに介抱をつづけているうちに、ものを言うこともできるようになり、二百日たつと起きあがって杖にすがりながら歩くことができるようになり、一年後には全く普通の娘と変らなくなった。顔の色も、肌のつやも、気力も、すべて世間の娘と同じだった。
そこで、馮家では使いを出して北海の徐家へ、くわしくいきさつを知らせた。徐家ではおどろき、かつよろこび、一族の者がみな馮家へかけつけて娘に会った。
馮家では吉日を選んで結納を交し、娘を嫁に迎えて、馬子と夫婦にした。
夫婦は仲むつまじく暮し、二人のあいだにはやがて二男一女が生れた。長男は元慶といって、懐帝の永嘉初年に秘書郎中(ひしよろうちゆう)になり、次男は敬度といって、太傅掾(たいふえん)になり、娘は済南の劉子彦(りゆうしげん)のもとへ嫁いだという。
六朝『捜神後記』