長安の平康(へいこう)坊に、馬震(ばしん)という人が住んでいた。故郷は陝西(せんせい)の扶風(ふふう)であった。
ある日の真昼どき、門をたたく音がするので出て行って見ると、驢馬(ろば)をひいた少年がいて、
「早くお代をくださいよ」
と言った。
「なんの代だね」
ときくと、少年は、
「驢馬のにきまっているじゃありませんか」
と言う。馬震がわけのわからぬまま、少年の顔を見返していると、少年は大声で、
「さっき、東市(とうし)からここまで女の人を乗せてきたんですよ。ここで降りて、この家へはいって行ったのに、知らぬふりをしてわずかな代金をごまかそうとするのですか」
と言った。うそをいっているようには見えない。不審に思いながらも、馬震は少年の言うだけの銭をやって帰らせた。
二、三日たったとき、また真昼どき、門をたたく音がした。出て行って見ると、先日の少年ではなかったが、やはり驢馬をひいた男がいて、同じことを言った。その後も同じことが、三度、四度とおこったので、馬震はあるいは何かの怪異のしわざではないかと思い、門の両脇に下男をひそませて、毎日様子をうかがわせていた。
と、ある日の真昼どき、見張りの下男があわただしく馬震を呼んで、
「いま、東の方から、女が驢馬に乗ってやってきます!」
と言った。すぐ出て行って、門のすきまからのぞいていると、女はだんだん近づいてきた。ようやく顔のわかるところまできたとき、馬震は思わず、
「あっ!」
と叫んだ。女は確かに馬震の母だったのである。死んでからもう十一年にもなり、南山に葬ったのだが、顔も着ているものも葬ったときのままであった。
母が驢馬から降りたとき、馬震は大声をあげて門から走り出た。と、母はびっくりしたように一瞬立ちどまったが、すぐ、馬震の横をすりぬけるようにして門の中へかけ込み、目かくしの塀のまわりを逃げまわった。つかまえられそうになると、こんどは、身をひるがえして裏の馬小屋のほうへ逃げて行った。追って行くと、母は馬小屋を通りぬけ、そのうしろの土塀に身を貼りつけるようにして立ちすくんで、いくら呼んでも、出てこようとしない。
馬震がそばへ寄り、袖を引っぱると、着物だけがすっぽりと抜けて馬震の手に残り、母はばたりと倒れた。倒れた姿は、白骨だった。骸骨は一片も欠けずにそろっている。よく見ると、赤い糸のような血管が骨と骨とのあいだを通っていた。
馬震は声をあげて泣きながら、骸骨を抱きおこして着物を着せ、柩(ひつぎ)を買って納めると、奥の部屋に安置し、香花を供えて祭礼をとりおこなった。翌日、南山の墓地へ行って調べたところ、墓はもとのままだったが、掘りおこして見ると柩の中は空(から)だった。
死後十一年もたってから、急に南山の墓地に安住できない何ごとかがおこったのであろうか。それにしても、家に帰ってきながら逃げまわったのはなぜだろうか。馬震にはなんの見当もつかなかった。亡霊は夜あらわれることが多いときいているのに、母にかぎっていつも真昼どきにやってきたことも解せなかった。あるいは故郷の地に改葬してもらいたくなって出てきたのかもしれぬとも考えられたが、その機会もないまま、同じ洛陽の郊外に見晴らしのよい地をさがして改葬したところ、母は再びあらわれることはなかった。
唐『続玄怪録』