浙江(せつこう)の余杭(よこう)県のある寺に、さる大家(たいけ)の娘の柩(ひつぎ)があずけられていた。
娘は夕暮れになるとあらわれてきて、僧と酒を飲んだり、歌を歌ったりしていたが、やがてなれるにつれて、僧といっしょに寝て、明け方、帰って行くようになった。
そのようなことが二年間つづくうちに、町の人々がうわさをしだし、うわさは娘の父親の耳にもはいった。父親はまさかと思ったが、とにかく娘の死骸(しがい)を焼いてしまおうと心に決めた。そうすれば、うわさも消えるだろうと思ったからだった。
するとその夜、娘の亡霊が母親の夢枕(まくら)にあらわれて、泣きながら訴えた。
「わたしはまだ男の肌(はだ)も知らないうちに死んでしまいましたが、不思議な縁であのお坊さまと結ばれて、女のよろこびを知るようになりました。それがみだらなことであることも、ご両親の名をけがすことであることもわかっておりながら、やめることができずにおりますうちに、とうとうおなかに子どもを宿してしまったのです。そのおなかの子を産みおとさないことには、わたしは未来永劫(えいごう)、身の置きどころがなくなってしまいます。どうか、あと三日だけ、おゆるしください。それからなら、わたしをお焼きになろうとどうなさろうと少しもかまいません」
母親が目をさまして、夫にこのことを話すと、夫は怒って、
「娘は死んでいるのだぞ。死者のくせに坊主とたわむれて子を宿すとは、なんという恥さらしだ。焼いてしまわないでどうする!」
とどなった。その夜、娘の亡霊はまた母親の夢枕にあらわれて、泣きながら昨夜と同じことをたのんだ。翌朝、母親がまたそれを夫に話すと、夫は、
「いや。いまからすぐ焼いてしまおう」
と言い、葬儀屋を呼んで寺から柩を引き取り、北郊の山麓(さんろく)で、薪(まき)を積んで柩を焼いてしまったが、そのとき、死体の腹は大きくふくらんでいて、しばらく見ているうちに腹が裂け、中に赤ん坊がいるのが見えたという。
宋『夷堅志』