安徽(あんき)の宣城は、兵乱があってから住民は四方へ離散してしまってさびれ、城外も蕭条(しようじよう)たる草原になっていた。
そのころのことである。城外の村の農夫の妻が妊娠したまま死んだ。夫はその遺骸(いがい)を村の古廟(こびよう)のうしろに葬ったが、その後、廟の近くに住んでいる人々は、夜になると草むらの中にともしびが見えかくれするのを、しばしば見るようになった。ときには赤ん坊の泣き声に似た声がきこえてくることもあるという。
宣城の城門の近くに餅(もち)屋があったが、毎日、日暮れどきになって店を閉めようとするころになると、赤ん坊を抱いた女が餅を買いにきた。毎日欠かさず、きまった時刻にやってくるので、餅屋は不審に思うようになり、あるとき、そっと女のあとをつけて行ってみた。すると女の姿は古廟のあたりで見えなくなってしまった。
餅屋はいよいよ不審に思い、翌日女がきたとき何気ないふうに話しかけながら、すきを見て女の裾(すそ)に赤い長い糸を縫いつけておき、女が帰ってから、またそっとそのあとをつけて行った。女はつけられていることをさとったらしく、いつのまにか姿を消していたが、その翌日、姿の見えなくなった古廟のまわりをさがしてみたところ、裏の草むらの中に糸が落ちているのを見つけた。あたりを見まわすと、糸の落ちていたすぐ近くに、新しい塚があった。餅屋は廟の近くの民家へ行って、だれの塚かたずね、女の夫の家へ行ってわけを話した。
夫はおどろき、近所の人々にたのんで、いっしょに塚へ行ってもらった。見れば塚はどこにもくずれたところはなかったが、掘りかえして棺をあけてみると、中に赤ん坊が生きていた。女の顔色もまだ生きているように見えたが、もちろん、生きてはおらず、妊娠していた胎児が死後に産み出されたものとわかった。
夫の家では、あらためて妻を火葬にし、その赤ん坊を養い育てたという。
宋『夷堅志』