後に岳州の刺史(しし)になった李俊(りしゆん)が、官途につく前の話である。
李俊は志をたててから三十年、何度進士の試験を受けても合格しなかった。貞元二年の試験のとき、李俊は、昔の知人で今は国子監(こくしかん)の長官になっている包佶(ほうきつ)が礼部の試験係の役人と親しいことを知って、包佶にたのみ込んで合格の運動をしてもらった。
合格者発表の一日前には、合格者の名簿を宰相のもとへとどけるのが慣例になっていた。その日の夜明け前、李俊は不安でじっとしていることができず、包佶の家へ様子をききに行こうとして家を出たが、町の木戸がまだ開かなかったので、木戸の外に馬をとめて、開くのを待っていた。
木戸のそばには団子屋があって、ほかほかと湯気のたっている団子を売っていた。李俊が何気(なにげ)なくその店さきをながめると、どこかの役所から文書を持ってきたらしい小役人風の男が一人、店の脇に腰をおろしていたが、その顔には団子を食べたそうな気持がありありとあらわれていた。
李俊は馬から降りてそのそばへ行き、
「わしも買う。おまえさんも買ったらよかろう」
と言った。するとその小役人風の男は、
「あいにく、財布が空(から)なもんで……」
と言った。
「なんだ、そうだったのか。安いものだ、わしが買ってあげよう」
李俊はそう言って十個買い、一つ頬張って残りをその男にやった。男はよろこんで、むしゃむしゃと、たちまちのうちに九つを食べてしまった。
遠くから夜どおしで歩いてきて、よほど腹をすかしていたのだろう、と李俊は思った。
やがて夜があけて、木戸が開き、待っていた人たちはどっと通り抜けて行った。李俊がそのあとから馬で行くと、さきほどの男がついてきて、
「ちょっとお話があります。しばらくお待ちくださいませんか」
と言った。李俊がふりむいて、
「なんの用だね」
と言うと、男は、
「あなたは受験生ではありませんか」
ときいた。李俊は内心おどろきながら、
「そうだが……」
と言って馬から下り、
「それで、話というのは?」
ときくと、男は、
「往来ではどうも……」
と言った。ちょうど店をあけたばかりの茶店があったので、李俊は店の前に馬をつなぎ、男を誘って中へはいった。男は自分から壁ぎわの目立たない席へ行き、腰をおろすと、声をひそめて、
「じつはわたしは、人間ではないのです。亡霊で、冥土でちょっとした役をつとめております。その役が、あなたに関係のある役で……」
「わたしに関係のある……?」
「そうです。進士の合格者名簿を伝達する役なのです。ここにその名簿があります。あなたが合格しているかどうか、ご自分で調べてごらんなさい」
李俊は名簿を受け取って、二度三度と調べてみたが、自分の名は載っていなかった。
「ないようですな」
と男は言った。李俊はうなずき、涙を流しながら言った。
「受験のために二十年ものあいだ、たゆまず学問をしました。都へ上って試験を受けるようになってからも、もう十年になります。何度受けても合格しませんでしたが、答案が不出来だったからというよりも、運がなかったのです。こんどの試験も答案はよくできたつもりです。そのうえ、友人の国子監の長官にたのんで合格の運動をしてもらったのですが、それなのにやはり、いま見ればわたしの名はありません。わたしは生涯合格できないような運命なのでしょうか」
「あなたにきまっている運勢では、合格は一年さきということになっているのです。一年さきに合格すれば、あなたは将来、高い地位につくことができます。しかし、どうしても今年合格したいのでしたら、それもできないことではありません。ただし、今年合格すれば、天から授かった地位の半分は減らされてしまいますし、出世にもいろいろ障害が多くて、せいぜい刺史にしかなれません。それでもよければ、わたしがお手助けしましょう」
「それでけっこうです。わたしは合格することができさえすれば、それで満足なのです。将来格別高い地位につきたいとは思っておりません。刺史になれるなら十分です。どうか今年合格させてください。だが、もう合格者名簿ができあがっているのに、そんなことができるのでしょうか」
「冥土の係りの役人にいくらか金をやってくださるならば、いまここで、名簿の中からあなたと同姓の人を選び出して、その名のところだけを消し、あなたの名を書きこませてあげますが、いかがです」
「いくら差しあげればよいのですか」
「紙銭(しせん)で三万貫です。わたしは団子をいただいたご恩に感じて、このように打ちあけた話をしているのでして、決してわたしがその金をちょうだいしようというわけではありません。その金は冥土の文書係に渡すのです」
「紙銭三万貫をどのようにしてお渡しすればよいのですか」
「直接お渡しくださることはないのです。明日の正午、焼いてくださればけっこうです」
「必ずそういたします」
李俊がそう言うと、男は筆を渡して、
「これで、ご自分で名前を書きこみなさい」
と言った。李俊が筆を持って名簿を順に見ていくと、李夷簡(りいかん)という名があった。李夷簡は唐の帝室の一族で、後に宰相になった人である。李俊がその名を消そうとすると、男はあわてて、
「その人はいけません。その人は運勢が強いので、手をつけてはいけません」
と言った。そのつぎに李温という名があった。李俊が、
「これは?」
ときくと、男は、
「それならかまいません」
と言った。李俊はそこで「温」という名を消して「俊」と書き入れた。すると男は名簿を受けとって箱の中へしまい、
「必ず明日の正午、紙銭三万貫を焼いてくださいよ」
と念をおし、
「ではこれで」
と言って茶店を出て行ったが、戸口を出るなりその姿は消えてしまった。
李俊はそれから包佶の家へ行った。包佶はまだ起きたばかりだったらしく、長いあいだ李俊を客間に待たせたあげく、不機嫌な顔をして出てきて言った。
「疑い深い男だな、君は……。係りの役人とわたしとは親しい仲だ。ちゃんとたのんであるから、君はまちがいなく首席合格だよ。わたしを信用できぬというのかね、君は……」
「そうではないのですが、今日は合格者名簿の提出される日だと思うと、気が気でなく、お叱りを覚悟で参上しました次第で……」
「うん、その気持はわからぬではないが……」
包佶はそう言ったが、李俊の早朝からの訪問にかなり腹をたてているようだった。
李俊は包佶の家を出てから、物かげにかくれて包佶が国子監へ行くのを待ちうけ、そっとあとをつけて行った。途中、包佶は礼部の役人が合格者名簿を持って中書省へ行くのに出会った。
「これはよいところで出会った。お訪ねしようと思っていたところだ」
包佶は馬をとめてそう言い、
「この前お願いしたことは、うまくやってくださったでしょうな」
ときいた。すると礼部の役人は恐縮して、
「それが、まことに申しわけのないことで、いくらおわびしても足りないのですが、おえらいかたから幾人も合格させるように強制されまして、どうにもご希望にそえませんでしたので……」
と言った。
「なに? なんと言われる? 希望にそえなかったと? あなたはちゃんと承知したはずだぞ」
包佶は馬から降りて礼部の役人に詰め寄り、顔を真っ赤にして言った。
「季布(きふ)の一諾(いちだく)という言葉をご存じか! 季布が天下に名声を得たのは、一度引き受けたことはあくまでもやりぬいたからですぞ! しかるに君は、引き受けておきながら裏切って、わたしに恥をかかせるとは! わたしは、わたしの不運な友人に対してうそをついたことになる。君はわたしを裏切ったばかりか、わたしにうそつきの名をかぶせたのだ! わたしの地位を閑職だと見て、あなどったのか! 君を見そこなったよ。これまでのおつきあいも、今日限りだ!」
包佶は怒りに体をふるわせてそう言うと、馬に乗ろうとした。礼部の役人はあわてて追いすがって、
「待ってください」
と言った。
「おえらいかたから幾人もの受験者をぜひにと言われて、どうしても李俊の名を残せなかったのです。しかし、これまでたいへんお世話になったあなたに絶交を申しわたされては、わたしの一身のことなど、もう、かまってはおられません。それほどのお怒りを受けるくらいなら、いっそのこと、おえらいかたの咎(とが)めを受けることにします。よろしい。名簿をごらんになって、一人の名を消して李俊の名を入れてください」
礼部の役人は包佶を脇道に引きいれて、名簿を見せた。包佶は李という姓をさがして、
「これは」
ときいた。すると役人は、
「これは困ります。この李夷簡というのは宰相からお話のあった人物で、これだけは消すわけにはいきません」
と言い、そのつぎにある李温の名を指さして、
「これなら、しかたがありません」
と言って温の字を消して「俊」と書き入れた。
李俊は物かげからそれを見とどけて、そっと引きかえした。
翌日、合格者の発表を見に行くと、李夷簡のつぎに李俊と書かれていて、李俊ははじめてほっとした。
その日の正午は、ほかの合格者たちといっしょに各方面への挨拶(あいさつ)まわりをさせられていたため、李俊は、正午に紙銭三万貫を焼くという亡霊との約束を果すことができなかった。日暮れにようやく解放されて家へ帰る途中、李俊はその亡霊に出会ったが、亡霊は泣きながら李俊に背中を出して見せて、
「あなたが約束を果してくれなかったために、わたしは棒でたたかれて、こんなひどい目にあわされました」
と言った。李俊がわけを話して、
「約束を破るつもりではなかったのです。どうしても果せなかったのです。いまからでは、もうおそいでしょうか」
と言ってわびると、亡霊は、
「あなたが故意に約束を破ったのではないことはわかっていましたので、文書係の役人はこの件を問題にして調査すると言ってきかなかったのですが、わたしが別のほうから手をまわして握りつぶしてもらいました。それで、その別のほうの役人に、握りつぶし料をやってもらいたいのです」
「いくら差し上げればよいのですか」
「紙銭二万貫です。文書係の分の三万貫と合わせて、五万貫を、明日の正午、焼いてください。明日はどんな事情があっても、必ず約束を果してくださいよ。そうしないと、あなたの合格は取り消されます」
「必ず、心を込めて紙銭五万貫を焼きます。それにしてもあなたのその背中の傷は……」
「紙銭を焼いてくだされば、あとかたもなくなおります」
亡霊はそう言って姿を消した。
翌日の正午、李俊は紙銭五万貫を焼いた。亡霊はそれきり姿をあらわさなかった。
だが李俊は亡霊のいったとおり、官途についてからはいろいろな障害にあい、あらぬ嫌疑(けんぎ)で取り調べを受けたり左遷されたりして順調には出世できなかった。後にようやく岳州の刺史になったが、いくらもたたぬうちに死んでしまった。
人間の栄達も困窮も、すべて冥界の定めによるといわれるが、それは決してうそではないのである。
唐『続玄怪録』