晋の永嘉年間のことである。
ある日、禁門の将の張禹(ちようう)が旅に出て、広い沼地を通っていると、にわかに空が暗くなって、雨が降りだしてきた。そのとき前方に、門のあけてある屋敷が見えたので、中へはいってみると、一人の下女が出てきて、
「どなたでございますか」
とたずねた。張禹が、
「旅の途中で日が暮れ、雨にあいましたので、一夜の宿をお願いしたいと思いまして」
と言うと、下女は、
「しばらくお待ちください」
と言って奥へはいって行ったが、まもなくまた出てきて、
「どうぞおはいりください」
と言った。
屋敷の中へはいって行くと、三十歳くらいの人品いやしからぬ女が帳(とばり)の向こうに腰をかけていて、そのこちら側には二十人ばかりの下女が控(ひか)えていた。みなきらきらとした衣装を身につけている。
張禹が女に挨拶をすると、女は、
「何かお入り用のものがございましたら、お申しつけくださいませ」
と言った。
「食べ物は持っておりますから、お茶をいただきたいのですが」
と張禹が言うと、女は下女に言いつけて湯わかしを持ってこさせた。火にかけるとまもなく湯の煮えたぎる音がしたが、音だけで、中は水であった。すると女が言った。
「ここは墓で、わたしは亡霊なのです。墓の中では湯をわかすこともできなくて、せっかくおいで願いましたのに申しわけございません」
そして、すすり泣きながら、身の上を話した。
「わたしは山東の任城県の孫(そん)という家の娘でございます。父が河北の中山の太守をしておりましたとき、わたしは同じ河北の頓丘(とんきゆう)の李(り)という家へ嫁ぎ、息子と娘を一人ずつもうけました。ところが、わたしが死にますと、夫は、わたしの使っておりました承貴(しようき)という下女をかわいがるようになりました。それはまだよいのですが、承貴はわたしの子供をじゃまにして、頭といわず顔といわず打ったり、たたいたりして折檻をしどおしなのです。息子は十一、娘は七つになるのですが、ろくに食べ物も与えられず、このままではいまに死んでしまうでしょう。わたしは下女に裏切られたことがくやしくてならず、殺してやりたいと思うのですが、亡霊の精気は弱いものでございまして、どなたかのお力を借りないことには、それができません。あなたにここへおいで願ったのは、お力を借りたいと思ったからです。もし、わたしの願いをきいてくださいましたならば、十分にお礼はいたします。どうかおききいれくださいますよう」
「あなたのお話をうかがって、心から同情はいたしますが、人を殺すということは容易ならぬことです。ほかのことならともかく、それだけはお申しつけに従いかねます」
張禹がそう言うと、女は、
「あなたにその下女を殺してくださいとお願いするわけではございません。ただ、わたしがあなたに申しあげましたことを、あなたのお口から夫にお話しいただきたいのです。夫はその承貴という女をかわいがっておりますから、きっと厄除(やくよ)けのまじないをしたいと言うはずです。そのときあなたは、まじないの術を知っているとおっしゃってくださいませ。夫はそれをきいたら、承貴にあなたのおっしゃるとおりにして祈らせるにちがいありません。承貴が祈っているときでしたら、わたしは承貴のそばへ行って怨みを晴らすことができるのです」
張禹は承知して、夜が明けてから墓を出ると、まっすぐに頓丘の李家へ行って、女が言ったとおりのことを伝えた。すると李はおどろいてそのことを承貴に話し、承貴もこわがって、張禹に厄除けのまじないを教えてほしいとたのんだ。
と、そのとき張禹の眼には、孫氏が家の中にはいってくるのが見えた。孫氏のあとには、それぞれ刀を持った二十人ばかりの下女がつき従っている。孫氏がそばに近寄って、承貴の胸に刀を突き刺すのを、張禹ははっきりと見た。と、そのとたんに承貴はばったりと倒れ、そのまま死んでしまった。見れば承貴の体には傷あとも何もなく、孫氏と下女たちの姿も、たちまちかき消えてしまった。
その後、張禹は再びあの沼地を通った。するとまた孫氏の亡霊があらわれて、お礼のしるしにと言って五色の絹を五十疋(ぴき)、張禹に贈った。
六朝『志怪』