唐の徳宗(とくそう)の貞元初年のことである。
河南の少尹(しよういん)の李則(りそく)という人が死んだ。すると、家人がまだ納棺もしないうちに、朱衣を着た人がきて、名刺をさし出し、みずから蘇郎中(そろうちゆう)と名乗って、弔意を述べた。
蘇郎中は部屋へはいって李則の遺骸(いがい)に対面すると、長いあいだ慟哭(どうこく)していたが、やがてにわかに李則の遺骸が起きあがって蘇郎中につかみかかった。蘇郎中も負けじと格闘しだした。
家人はそれを見ておどろき、みな部屋から逃げだした。二人の格闘する声は外にまできこえて、いつやむとも知れずつづいたが、やがて日が暮れてくると、急にやんだ。
家人がおそるおそる部屋へはいってみると、李則の遺骸と並んで蘇郎中も死んでいた。家人はそばへ寄って、さらにおどろいた。二つの遺骸の一つを蘇郎中だと思ったのは、それが朱衣を着ていたからであった。そのほかは、体躯(たいく)も容貌(ようぼう)も鬚髯(しゆぜん)も、すべて、寸分ちがわなかったのである。
李家では一族の者がみな集って話しあったが、わけがわからず、結局、二つの遺骸はともに李則であると見て、同じ棺に納めて葬った。
その後は何事もおこらなかった。
唐『才鬼記』