開元年間のことである。劉(りゆう)という士人がいた。才学はあったが官途につけず、家が貧しかったので、食客として生計を立てようと思って河北の地へ出かけて行ったものの、どこへ行っても相手にしてくれる人がなかったので、引き返して河南の黎陽(れいよう)まで来たときのことである。
日が暮れてしまったが、つぎの宿場まではまだかなりの道のりがあったので、どこかに一夜の宿を借りる家はないかと見まわしながら歩いていると、ゆくての道端に門が見えた。あそこで宿を借りようと思って行って見ると、なかなかりっぱな屋敷だった。門をたたくと下男が出てきたので、
「日が暮れてしまって、つぎの宿場までは行けそうもありませんので、門のわきの小屋にでも泊めていただきたいのですが……」
と言うと、下男は、
「しばらくお待ちください。旦那様にうかがってまいりますから」
と言って引き込んで行った。しばらくすると靴の音がきこえてきて、冠をつけたりっぱな身なりの人が出てきた。
「わたしがこの家の主人です」
とその人は言った。
「あばらやで、お立ち寄り願うほどのところではありませんが、よろしかったらどうぞ、おはいりください」
そして先に立って部屋の中へ案内した。
主人は超俗的な話題を好んで話した。北朝以来の出来事も話したが、まるで自分の眼で見たことのような話しぶりだった。劉が姓名をたずねると、
「荀季和(じゆんきわ)と申します。郷里は潁川(えいせん)ですが、父が当地で役人をしておりましたので、そのままここに住みつきました」
と言った。やがて酒食が出された。料理はみな清浄なものだったが、味は、それが主人の好みか、きわめて淡白であった。
酒食がすむと、主人は劉を寝室へ案内したうえ、下女の一人に夜伽(よとぎ)を言いつけた。劉は久しく女に接していなかった。しかも下女は美貌(びぼう)だったので、劉は心を動かして情を交(まじ)えた。そのあとで劉は下女にたずねた。
「この家のご主人は、何をしておいでなのか」
「いまは河伯(かはく)の主簿をしておいでです。でも、このことは誰にもおっしゃらないようにしてくださいませ。わたしがそう言ったということも……」
と下女は言った。
「やはりそうだったのか」
と劉は思った。河伯というのは川の神である。
しばらくすると、部屋の外で苦しそうなうめき声がした。劉がそっと窓からのぞいて見ると、主人が椅子に腰をかけていて、一人の髪をふり乱した裸の男を前に引きすえていた。
「鳥を呼べ」
と主人が部下の者に言いつけた。部下が手をふって合図をすると、まもなく嵐のような音がおこって鳥の群れが飛んできた。鳥は男にむらがって、その眼をつついた。男の顔からは血がしたたり落ちつづけた。
主人は憎々しげに男に言った。
「どうだ、これでもまだわしに乱暴をはたらく気か」
男は答えることもできず、苦しげにうめいている。
劉は下女にたずねた。
「あの仕置を受けているのは何者なのだ?」
「あなたにはかかわりのないことです。他人のことなど、どうでもよいではありませんか」
「たのむ、教えてくれ」
「知ってどうなさるのです?」
「どうもしない。できるわけもない。だが知りたいのだ。身分のある人のようだが……」
「どうもしないとお誓いになるなら、お教えします」
「誓う。もし誓いを破れば、わたしの眼が鳥の群れにつつかれるだろう……」
「あの人は黎陽の県令です。狩猟が好きで、獲物(えもの)を追いかけて何度もこの屋敷の垣根を乗り越えるので、それでお仕置を受けているのです」
「そうか……」
「あの人は自分の犯している罪を知らないのです。知らずにひどい目にあわされているのです。あなたなら、それをあの人に教えてあげることができるでしょう」
翌朝、劉は主人に一夜のもてなしの礼を言って別れを告げ、その下女に見送られて門を出た。しばらく行ってからふりかえって見ると、門にたたずんでいた下女の姿はなく、そこは大きな塚であった。村人に出会ったのできくと、
「あれは荀使君の墓です」
と言った。やがて黎陽に着いた。劉は県役所へ行って県令に面会を求めたが、下役人は、
「病気で誰にも会われぬ」
と言った。劉が、
「眼がおわるいのではありませんか」
ときくと、役人はおどろいて、
「どうして知っている?」
ときき返した。
「わけは県令にお会いしてお話しします。わたしは治療の法を知っているのですが、ここでは言えません」
と劉は言った。
県令は役人から劉のことをきくと、すぐ居間へ呼びいれさせた。劉は昨夜のことをくわしく話して、
「今後、二度ともうあの塚をお荒しになりませんよう。紙銭(しせん)を焼き、供え物をしてお祭りをなされば、必ずご病気はなおりましょう」
と言った。県令はうなずいて、
「そうだったのか。確かに狩猟をしてあの塚の垣の中へ馬を乗りいれたことが何度かあった。そなたの言うとおりに祭りをして、荀使君の霊にわびよう」
と言い、劉に十分な礼金を贈った。
県令は劉が立ち去ったあと、村役人を呼び、内密に命令して、数万束の薪(まき)を集めて塚のまわりの垣根の外側に積ませた。
そしてその翌日、薪に火をつけて垣根を焼きはらったうえ、塚をあばいて棺を掘り出し、新たに遠くの山の麓に塚を築いて改葬した。すると、眼の病気はたちまちなおってしまった。
それから一年たったとき、劉はまたもとの荀使君の塚の前を通りかかった。と、頭も顔も焼けただれ、身にはぼろぼろの焦げた着物をまとった男が一人、いばらの中にうずくまっているのを見かけた。その男は立ちあがって劉に近寄ってきたが、劉には見覚えがない。怪訝(けげん)な顔で見ると、男は、
「あなたは去年、わたしの家に宿を借りたことをお忘れか。わたしは荀季和ですよ」
と言った。劉はそう言われてはじめて、それが荀使君であることに気づき、
「どうしてそんな姿になられたのです」
ときいた。
「去年、あなたにお別れした翌日、県令にひどい目にあわされたのです。垣根を乗り越えたぐらいのことで、眼を痛め苦しめたわたしがわるかったのかもしれません。あなたが県令にわたしのことを話されたのは、わたしへの好意からであって、県令がわたしをひどい目にあわせたことは、あなたの本意でなかったことはわかっております。つまりは、わたしの運が尽きたのでしょう」
「下女たちはどうなりましたか」
「下男も下女も、そのときみな焼け死んでしまいました。あなたに仕えて夜伽をしたあの下女も……」
「そうでしたか。まったく申しわけのないことをしてしまいました。なんといっておわびしたらよいのか……」
劉は心から後悔して、荀使君のために、その場で小さな酒宴を開いてなぐさめ、着物を一そろい焼いて贈り物とした。荀季和の亡霊はよろこんでその贈り物を受け取ると、それきり姿を消してしまった。
唐『広異記』
(注)荀季和は後漢の学者。名は、淑、季和は字である。当時の名賢、李固・李庸らはみな彼を師と仰いだ。二度朝廷から召されて官職につき、明快にその職務を遂行して神君と称されたが、二度とも長くは官職に居らず、辞任して家へ帰り、閑居して超俗的な生活を送った。