趙合(ちようごう)という進士がいた。容貌はおだやかだったが、正直(せいちょく)な気性の人で、その行状はきわめて高潔であった。
唐の文宗の太和年間のことである。趙合は甘粛(かんしゆく)の五原のあたりを旅していたが、途中、砂漠地帯を通ったとき、風物をながめて感傷的になったあまり、酒を飲みすごして酔いつぶれ、砂漠の中で眠ってしまった。
真夜中、酔いがさめて眼をあけると、月光の冴(さ)えわたっている砂漠のどこからか、悲しげな声で歌う女の声が、かすかにきこえてきた。趙合は起きあがって、歌声のするほうへ、声をたよりにたずねて行った。
と、果して一人の娘がいた。年はまだ二十歳にならぬほどで、絶世の美人である。一目見て、この世の人ではないことがわかった。
「わたしに訴えたいことがあるのでしょう。できることならなんでもしますから、おっしゃってみてください」
趙合がそう言うと、娘は話しだした。
「わたしは李と申しまして、陝西の奉天に住んでおりました。姉がこの甘粛の洛源(らくげん)の守備隊長のもとへ嫁ぎましたので、会いに行く途中、党羌(とうきよう)(タングート族)に出会って捕虜になり、ここまで連れてこられて、殺されたのでございます。その後、通りがかりの人があわれに思って遺骸を砂の中に埋めてくれました。それから三年になります。あなたは義侠心のつよいおかたと存じますので、お願いする次第ですが、どうかわたしの骨を奉天まで持ち帰ってくださいませんでしょうか。奉天の町の南郊に小李村というところがございます。そこがわたしの郷里なのです。もしお願いをきいてくだされば、お礼は十分にいたします」
「承知しました。あなたの遺骸の埋めてある場所をお知らせください」
趙合がそう言うと、娘は涙を流しながら感謝して、その場所を教え、
「ここでございます」
と言うと、その姿は見えなくなってしまった。趙合はそこを掘って遺骸をとりあつめ、旅嚢(りよのう)の中へおさめて、夜のあけるのを待っていた。
そのとき、紫の衣装をまとった偉丈夫が馬をとばしてやってきて、趙合に会釈(えしやく)して言った。
「あなたは仁慈の心深く、義侠心に富み、信義に厚く、高潔な人物とお見受けした。婦女子のたのみをも感動して引き受けられるとは! わたしは尚書の李文悦(りぶんえつ)と申す者です。去る元和十三年、五原の守備をしていましたが、犬戎(けんじゆう)の三十万の大軍に城をかこまれました。敵陣の厚さは十数里にも及び、連発する石弓は雨の降りそそぐよう、城壁にさしかけてくる梯(はしご)は雲にもとどくばかり。敵は城壁に穴をあけ、堀の水を切りおとし、昼も夜も攻めたててきた。城中では水汲みをするにも戸板をかついで出たが、その板に矢が立って、たちまちはりねずみのようになるありさまだった。
そのとき守備の兵士はわずかに三千。わたしは住民をはげましたので、女子供や老人まで土運びをし、飢えも寒さもいとわず働いてくれた。
犬戎は城の北に高さ数十丈の櫓(やぐら)を建てた。城内のありさまはそのため、ことごとく敵に見られるありさま。そこでわたしは奇計を案じて逆襲し、その櫓をうち倒してしまった。敵の大将はびっくりして、神のしわざではないかと言ったそうだ。わたしはまた城内の者に、建物をこわして焼かぬように言いつけた。薪が不足していたため、建物をこわしてそのかわりにする者がいたからだ。敵は火攻めの用意をしていて、城壁の下に薪を積みあげていたのだ。わたしはそれを知って、城内の者にその薪を釣りあげることを教えたのだ。
月が次第に欠けて夜の暗くなる頃だった。城壁のまわりに大勢の足音がきこえて、夜襲だ! と呼ばわる声がした。城内の者はおそれおののき、片時も安らぐひまがない。わたしはそのとき、夜襲ではない、敵の計略だと見破った。蝋燭(ろうそく)を鉄線のさきにくくりつけて城壁の外側へおろして見たところ、果してその足音は、敵が牛や羊を追いたてて城壁のまわりを駆けめぐらせているのだった。わたしはそれを見破って城内の者を安堵(あんど)させた。
あるとき、城壁の西北が十丈あまりにわたって攻め破られたことがある。闇夜の時期だったが、敵陣では、酒を飲んで前祝いをし、大声で歌いながら、夜があけたら一気に攻め込もうと言いあっていた。わたしはそのとき、馬に載せた大弓五百を城壁の破れ口に向けておき、皮の幕を垂らして城壁の補修をさせた。どうしたかというと、ひそかに水をかけさせたのだ。寒い季節だったから、一夜のうちに水は結氷し、補修のあとは銀のように光って、敵は攻め入ることができなかったのだ。
敵の大将は、旗じるしを立てていた。彼らの酋長(しゆうちよう)から賜(たまわ)ったもので、いのちよりも大事にしているものだ。わたしは夜中に城壁の穴から出て敵の本陣へ忍び寄り、その旗じるしを奪って飛ぶように馳(は)せもどった。敵の将兵は旗じるしを取られたことを知るとあわてふためき、これまで捕虜にした者をすべて返すから、その旗じるしと交換してくれと申し入れてきた。承知すると敵は、老若男女百余人を城内に返してきた。わたしは彼らがすべて無事に城内にもどったのを見とどけてから、その旗を投げ返してやった。
そのころ、〓(ひん)州・〓(けい)州からの援軍二万が五原の境まできていたのだが、敵の大軍を見て恐れをなし、近寄らなかった。こうして三十七日間敵とにらみ合っていたのだが、敵の大将はわたしに向って遠くから頭を下げ、この城には神のごとき将軍がおいでになる、これ以上無礼(ぶれい)ははたらかぬことにいたします、と言い、武器をおさめて兵を返した。彼らはそれから二晩もたたぬうちに宥(ゆう)州に着き、一日でその城を攻めおとした。宥州の住民三万は、そのとき老いも若きもすべて敵につれ去られてしまった。
この得失を考えてみれば、五原の城を守りとおしたわたしの功績は、決して小さなものではないはずだ。しかし当時の宰相はわたしが軍の権限を握ることをおそれ、わずかに位を一級進めてくれただけであった。
きくところによれば、鐘陵(しようりよう)の韋大夫(いたいふ)は、堤防を築いて洪水を防いだため、それから三十年たった後も住民はその徳をたたえ、勅命によってその仁政をたたえるりっぱな碑が建てられることになったという。わたしがあのとき、もし五原の城を守りとおさなかったら、どうなったであろうか。城内の者はみな夷狄(いてき)の奴隷になってしまったであろう。
あなたは心ある人とお見受けした。どうか五原の住民たちにこのことを伝え、州の刺史にもわたしの功績を気づかせて、わたしの徳をたたえる碑を建てさせていただきたい。婦女子のたのみをも感動して引き受けられたあなただ、わたしの願いをきいてくださらぬはずはないと思う」
李文悦の亡霊はそう言うと、頭を下げ、また馬をとばして帰って行った。
趙合はそれから五原へ行き、李文悦のことを住民に話し、刺史にも伝えたが、誰もみな、砂漠で妖怪に出会ったのだろうと言って、とりあわなかった。趙合はがっかりして引き返したが、再び砂漠を通ったとき、また李文悦の亡霊があらわれて言った。
「あなたがせっかく話してくれたのに、五原の住民たちは、いま自分たちがあるのは誰のおかげかも知らず、刺史も愚かで、とりあおうともしなかった。五原の町には必ずわざわいがおこる。わたしはいま、このことを冥府へ請願したところだ。あなたをわずらわしたのに、わたしの五原への希望は達せられなかったことを報告したのだ。おそらく一ヵ月もたたぬうちに、五原にはわざわいがおこるだろう」
言いおわると、その姿は消えた。
その後、果して李文悦の亡霊の予言した時期に災害がおこり、五原の町では一万人が飢え死にをし、人間が人間を食うというあさましい状態におちいった。
趙合は娘の骨を持って奉天へ行き、小李村をたずねて、ねんごろに葬ってやった。
その翌日、道を歩いていると、また娘があらわれて礼を言った。
「あなたの信義の厚さに感激いたしました。わたしの祖父は貞元年間に道術を体得いたしまして、『周易参同契(しゆうえきさんどうけい)』の解説を書き、また『混元経』の続篇をあらわしました。あなたがもしこの書物を研究なされば、いくらもたたぬうちに不老不死の仙薬をつくることができるようになられましょう」
娘はそう言って趙合に二つの書物を差し出したが、それが趙合の手に渡ったとたん、娘の姿は消えてしまった。
趙合はそのとき官途につくことを断念し、嵩山(すうざん)の中の少室山にこもって二つの書物の奥義を研究した。一年たって仙薬を作ってみたところ、瓦(かわら)をすべて黄金に変えることができるようになり、二年目には死んだ者を生き返らせることができ、三年目にはその薬を飲むと、俗界を超越することができるようになった。
いまでも嵩山の山道で趙合を見かける人があるという。
唐『伝奇』