宋(そう)の真宗の景徳元年のことである。
山西の霍丘(かくきゆう)の県令をつとめていた周潔(しゆうけつ)が、官をやめて淮水(わいすい)のほとりを旅していたとき、道に迷った。
そのころ、この地方は大饑饉(ききん)に見舞われていて、ほかには旅をする人もなかった。周潔は丘の上へのぼって見渡した。すると、遠くの村落に煙がたちのぼっているのが見えたので、目じるしを決めて、その方へ歩いて行った。
日暮れになって、ようやくそこへたどりついた。村落の入り口に、かなり大きな家があったので、門をたたくと、しばらくたってから一人の娘が出てきた。周潔が泊めてもらいたいとたのむと、娘は困った顔をして、
「このあたり一帯は大饑饉で、食べるものは何もありません。わたしの家もほかの家と同じで、家じゅうの者はみな飢えに迫られ、男も女も子どもたちも、みな患(わずら)って寝ておりますので、お客さまをお通しすることができないのです」
と言った。
「それは、それは——。夜露のしのげるところなら、どこでもよいのです。食糧は持っておりますから、決してご迷惑はおかけしません」
周潔がそう言ってたのむと、娘は、
「中堂に一つだけ空(あ)いている寝台があります。そこでよろしかったら、どうぞおやすみください」
と言って、周潔を中堂へ案内した。
案内されて部屋へはいり、寝台の縁に腰をおろすと、娘は立ち去らずに黙ってその前に立っていた。しばらくすると、もう一人の娘がやってきて、さきの娘のうしろに顔をかくして立った。
「どなたです」
と周潔がたずねると、娘は、
「わたしの妹です。はずかしがって顔をかくしておりますの」
と言った。
周潔は包みを開き、餅(もち)を出して、娘たちに一つずつやり、自分も食べた。娘たちは餅をもらうと、礼を言って帰って行った。
その後は、何の物音もきこえず、人声もせず、家のなかはしんと静まりかえったままだった。周潔は不審に思いながらも、旅の疲れからそのまま眠ってしまった。
夜があけたが、家の中はやはりしんと静まりかえっていて、人声も物音もきこえない。周潔は一夜の宿の礼を言ってから出かけようと思ったが、部屋から出ていくら呼んでも、だれも出てこず、返事をする者もない。
いよいよ不審に思い、扉(とびら)をこじあけて表の部屋へはいって見ると、そこには幾人もの死体が並んでいて、たいていはもう白骨になりかかっていた。
そのなかで、一人の女の死体は、まだ死後十日とはたっていないようで、腐ってはいなかった。それが昨夜の娘だったのである。そのそばに横たわっているもう一人の女の死体は、顔がもう骸骨(がいこつ)になっていた。
昨夜の餅は一つずつ、姉と妹の死体の胸の上に置いてあった。
周潔はいちど郷里へ帰ってから、あらためて人夫をつれてその村へ行き、その一家の死体をみな埋葬してやったという。
宋『稽神録』