日本橋、日本橋とよくいわれるけれど、だれが、いつ、そう命名したのかということは、はっきりわかっていないらしい。
昭和七年に「東京市史外編」の一冊として出版された「東京市役所編纂」の『日本橋』というモノの本にはこの橋と町の歴史がこまかく書かれているが、橋の命名の異説もいろいろと紹介されている。
南北にわたされた橋の上にたってながめれば富士山あたりまでが見晴せて、朝日、夕日、また江戸の町のあちこち、東西南北、ずっと見ることができて、ほかにこれにかなう橋はなかったので、�日本橋�としたのだという説。大都市の中心にあって、日本人で江戸に入るものでこの橋をわたらないものはなかったから�日本橋�と名づけたという説。江戸の中央にあって日本全国の里程標はすべてここが起点になるので�日本橋�という名があったという説。また、�にほんばし�は�二本橋�であって、もとは丸太ン棒を二本わたした橋であったのではないだろうかという語呂合せの駄洒落《だじやれ》説。さいごに、いちばん信用がおける説としては、『慶長見聞集』がある。
家康が江戸に入って日比谷の入江を埋立てて大改造したころに日本国中の人を集めてつくった橋があり、それを�日本橋�と命名したというのである。けれど見聞集の著者は、その巻の二で、事実はそうであっても、だれも会議をひらいてそうきめたわけではないのだとことわっている。
「天カラ降ッタノカ、地カラ湧イタノカ、皆ガ口ヲソロエテ日本橋、日本橋ト呼ブヨウニナッタガ、妙ナコトデアルト噂シアッテイル」と書いている。
家康は二万石以上の大名に、それぞれ千石について一人の率で工事人夫をだすように命じて江戸改造の埋立工事をした。人海戦術式に、ワーッと、ドーッと、やったらしいのである。だから日本国中の人間を集めてそのときにつくった橋だから日本橋と呼ぶようになったのだという説は、けっして無根拠とはいえないわけである。ただ、口紅から機関車まで、すべてのものに名前をつけずにはいられない現代の私たちにしてみれば、当時の首都の最大最長の橋の名が�天よりやふりけん地よりや出けん�というのは、おかしいことだと首をかしげたくなるわけである。
ロンドンにロンドン橋があるように江戸に日本橋があったのである。けれど、東京市役所の無名の学者は、橋の名を橋の男柱や袖柱に書きこむようにというような法令がでるようになったのは、徳川もずいぶん末期の弘化二年になってからのことであると考証している。だから徳川初期の慶長八年では、だれも橋の名を会議で決定しようなどとは思いつかなかったので、いつのまにかそう呼ばれるようになったのであるという想像のほうが事実に近いのではないか。
包装紙に『東京・日本橋』と店名の肩へ刷りこむ老舗《しにせ》がこの界隈《かいわい》に多い。「にんべん」、「国分」、「白木屋」、「西川」、「山本山」、「栄太楼」、「塩瀬」、「榛《はい》原」などという名を私たちはすぐに思いうかべることができる。�大日本帝国�にくっついて大きくなった「三井」も登場する。いずれも何百年とこの橋の付近に住みついてきたサンショウウオたちであるが、この人たちの先祖をさぐってみると、たいていが伊勢や近江の出身である。江戸は蛮地に家康が開拓した新興都市で、官僚の町、消費の町であった。お金という実力については大阪を中心とする関西商人たちがにぎっていた。その急先鋒の近江商人と伊勢商人が植民地開拓の情熱に燃えたって、ソロバンをカチャカチャ鳴らしつつ繰りこんできて、日本橋あたりから江戸を開発した。三井、にんべん、白木屋、西川、消えた伴伝、すべて伊勢商人、近江商人である。
「伊勢屋」という看板をかかげた商店がいたるところに氾濫して、一町あるくうちにおよそ半分はその看板が見られるという状態であった。業を煮やした時代の無名のスイフトが、俚諺《りげん》で、足をすくった。「伊勢屋稲荷に犬の糞」というような句を、発止《はつし》と、ぶっつけたのである。およそ事態はそのようなのであったから、�江戸ッ子�の先祖は伊勢商人、近江商人だということになりそうである。がめつくて、けちんぼで、やらずぶったくりで、冷酷で、通ったあとの道に草も木ものこさないという評判の高い近江商人が�江戸ッ子�の先祖であったというのは皮肉な話ではないか。
いまの日本橋|界隈《かいわい》は、高層ビルのコンクリートの峰で埋めつくされているが、いくつかのブロックにわけることができる。日本銀行(本石町)を中心とする金融街。兜町を核とする投資街。横山町あたりの問屋街。日本橋通りの百貨店街。
都庁の都市計画部へいって、ためしに、
「……ニューヨークでいえば、マジソン街と五番街とウォール街をごちゃまぜにしたということになりますか?」
と聞いてみたら、
「そう、そう。まさにそのとおりです。タイムズ・スクエアがないだけです」
という答えであった。
表通りはそういうありさまだが、ちょっと入った横山町では木やモルタル張りの家がアメーバ状の活力と混雑のうちに息づいている。中小の繊維問屋がマッチ箱のようにおしあいへしあいで活動しているのである。大阪の丼池《どぶいけ》筋とまったくおなじ光景が見られる。
青空駐車は五分間しか許さないよう指導員たちがしじゅう見てまわっているというが、道は荷物を積みおろしするライトバンの群れがひしめきあって、歩くには体を右に左にひねらねばならない。十五億エンをかけて共同駐車場をつくる予定なのだそうだ。すでに人間を疎開させるために、千葉県の高根台に五階建の鉄筋でこのあたり三十六店の社員たちの共同宿舎を建てつつあるという。それでも場所が狭すぎ、まわりから巨大ビル群に攻めたてられるため、神田川を干して共同ビルにする移動案もでているそうである。しかし、土地柄が土地柄なので、婆ァさまが、あたしの目の黒いうちはここをうごかないヨ、と宣言する家もあったりして、なかなかむずかしい。
すべての橋は詩を発散する。小川の丸木橋から海峡をこえる鉄橋にいたるまで、橋という橋はすべてふしぎな魅力をもって私たちの心をひきつける。右岸から左岸へ人をわたすだけの、その機能のこの上ない明快さが私たちの複雑さに疲れた心をうつのだろうか。その上下にある空と水のつかまえどころのない広大さや流転にさからって人間が石なり鉄なり木なりでもっとも単純な形で人間を主張する、その主張ぶりの単純さが私たちをひきつけるのだろうか。橋をわたるとき、とりわけ長い橋を歩いてゆくとき、私たちは、鬼気を射さぬ孤独になごんだ、小さな、優しい心を抱いて歩いてゆくようである。
しかし、いまの東京の日本橋をわたって心の解放をおぼえる人があるだろうか。ここには�空�も�水�もない。広大さもなければ流転もない。あるのは、よどんだまっ黒の廃液と、頭の上からのしかかってくる鉄骨むきだしの高速道路である。都市の必要のためにこの橋は橋ではなくなったようである。東京の膨脹《ぼうちよう》力のために|どぶ《ヽヽ》をまたいでいた、かすかな詩は完全に窒息させられてしまった。そこを通るとき、私たちは、こちらからあちらへ�渡る�というよりは、�潜る�という言葉を味わう。鋼鉄の高速道路で空をさえぎられたこの橋は昼なお薄暗き影の十何メートルかになってしまったのである。橋を渡るのではない。ガード下をくぐるのである。暗い鋼鉄道路を見あげて私たちは、いがらっぽくもたくましい精力を感じさせられはするが、すぐに目を伏せて、心を閉じ、固めたくなる。東京のどこを歩いていてもそうするように……。
日本橋が橋でなくなったように、この界隈の町内一帯も、なにやら�マジソン街�とか、�五番街�とか、�ウォール街�とかいうようなものになってゆく。つまり、固有名詞ではなくなって、世界の首都のどこにでもある一般的な代名詞となってゆく。�町内�というような言葉がすでに死語である。
一坪が二百万エンも三百万エンもする土地でだれが昼寝したり、フロに入ったりするだろうか。居住人口は日を追い年を追って減るばかりである。数ある老舗も消えたり、散ったりしてゆく。のこった老舗も、のこしているのは店だけで、経営者たちが住んでいるのは郊外である。
店員たちも郊外の団地から通い、一日が終ればさっさと郊外へ帰ってゆく。住人がいないのだから、夜店も、お祭も、縁日も、句会も、相撲大会もない。おみこしかついで踊ろうと考えても、第一、おみこしをかつぐ若者がいないのだから、とうとう今年は夏祭ができなかった。おそらく来年もできないだろう。
百貨店と銀行の壁、その渓谷の底にある小さな寿司屋の二階で、二人の老人に会った。一人は六十九歳の寿司屋の隠居、一人は七十四歳のワサビ屋の隠居である。二人とも日本橋で生れて、育ち、尋常小学校以来の友達である。日本橋に魚河岸があって、そのなかで空気を吸って、日本橋川で水泳ができて、両国橋あたりで白魚が四ツ手網でとれるのを見て育ったという、いわば石器時代の日本橋原人とでもいうべき人たちである。二人はかわるがわるに江戸以来の日本橋をめぐる町と橋の歴史をかたりあい、去った人、のこった人を指折りかぞえてうわさしあった。彼ら二人は風や水や火や物価の変動にもかかわらず、いまだにここにしがみついて抵抗をつづけているのだが、噂にのぼる人物たちは、店締めした老舗の伴伝をはじめとして、のこっている人たちよりも去った人たちの数のほうがはるかに多く、広いようであった。
翁面のように純白になった眉をそよがせて原人の一人がひそひそと嘆いた。
「……なんてッたッて情緒というものがなくなったな。僕が幼少のころはこのあたりに愚連隊なんかいなかったよ。町内の若い者がみんなでそういう奴《やつ》らを許さなかったのだ。力をあわせて暴力にたちむかったのだ。いまみたいに隣の人間がめいめいソッポを向いて暮して、十年たってもたがいに顔も知らねえなんてことは、なかったもんだ」
大杉栄をくびり殺した甘粕と軍隊では同期であったという元大尉、同期生の仲間に中尉が七十五人いたという、いまはワサビ屋のご隠居の原人は、山が海になるのを目撃した人間のようなおどろきをこめてつぶやいた。
「……たまに私など新宿あたりへゆくと、いやもうその人|賑《にぎ》わいのたいへんなこと、なにがなにやらわからなくなって、目がまわりそうですよ。まるでお上《のぼ》りさんみたいな気持ですな。それにくらべて夜の日本橋のさびれたことといったら、これまたたいへんなものでしてね、地下鉄で新宿から帰ってきたら、まるで田舎へやってきたみたいな気持がします」
おそらくそのとおりである。
いまから三年前の昭和三十五年の数字を見ると、中央区の人口は、昼間は五十五万人で、夜はたったの十五万人である。そして、この三年来、昼間の人口がふえるいっぽうなのに、夜の人口、つまり原住民の数は減るいっぽうなのである。日本橋本石町二丁目というところは、男も女もいない。人口ゼロである。ふしぎな町だなと思ってしらべてみたら、これは日本銀行であった。もともと「本石町二丁目」という町名は日本銀行だけのためにつくったものらしくて、昔から原住民ゼロなのだそうである。しかし、いずれにしても、夜になれば、あのあたりは壁と柱だけの、まったくの無人地帯となってしまうのである。
昼間のこの地区の活動ぶりを想像するのによいもう一つの数字がある。都電の一番線は品川から出発して銀座、日本橋をぬけて上野へゆく。始発は午前五時である。その時刻だと片道三十五分でゆける。ところが、白昼となると、これが一時間以上たっぷりとかかるのである。自動車の洪水《こうずい》で路面がおおわれるわけだ。地上を走らないで高架の国電にのれば品川─上野間は、たったの二十分でいけるのだが……
「銀座に客をさらわれて夜になるとまるで人通りというものがない。百貨店が大戸をおろしてしまうといよいよ闇です。そこで地元の私たちが陳情にいって、せめてウインドーだけは締めないで灯をつけておいてくれないかとたのんだ。どうやら高島屋だけは理解して灯をつけてくれているようですが……」
「効果がありましたか?」
「ないようですね」
ワサビ屋の老人は頭をふり、さびしそうに笑った。
寿司をご馳走してもらってからワサビ屋の老人といっしょに外へでた。ビルの薄暗い渓谷の底を歩いていると、灰いろのコンクリートの道には紙くずが散らかって風に踊っているだけだった。老人はあたりを指さし、昔はここは食傷新道といわれるほどたくさんの店が目白押しにならんでいたものですとつぶやいた。そして、嘆くでもなく、恨むでもない、淡々とした口ぶりで、微笑して、いった。
「時代なんですね、当然のことですよ。これでいいんです」
表通りの電車と自動車のすさまじい鉄の洪水のなかを、老人はひょいひょいと、達者な足どりで消えていった。
白鳥の
まさに死なんとするや
その声や
美《よ》し