夜の十二時になるまで寝ていてから、町へくりだし、朝の六時頃まで漂流した。あちらの深夜喫茶、こちらの深夜喫茶で、入るたびにウイスキーやコカコーラや紅茶を飲んだので、家へ帰って寝床にころがりこんだら、おなかが水樽みたいにゴボゴボッと音をたてた。
警察署にいって事情を聞いてみると、錦糸町の駅前あたりのが派手にやっているという。三階建ぐらいのがあって二階からうえは�御同伴席�となり、二人づれでなければ入れてくれない。店内は法規違反でまっ暗になっている。刑事が照度計を持ってのりこむと、ドア・ボーイが合図でもするのか、ちゃっと変圧器のダイヤルをまわして明るくする。刑事がでていくと、また暗くなる。その暗がりで少年、少女がタバコをふかし、キスをし、ヘビー・ペッティングにふけり、睡眠薬遊びをしているという。ついこのあいだは、十七、八歳の少女が、おおっぴらに匕首《あいくち》をチラつかせていたことがあったともいう。
いわれるままに錦糸町へいってみた。どの店も明るくて、デコラ張りのテーブルがテラテラ光り、ジャンパーにサンダルという若者たちがひっそりと紅茶を飲んでいた。ボックスは明るく、仕切りが低くて、となりの席でなにをしているか、まる見えである。三軒ほど歩いてみたが、どの店もおなじであった。若者たちは服装も眼の光りぐあいも、�プレイ・ボーイ�ではなく、�生活�の匂いがぷんぷんしていた。このあたりに住んでいて一日の仕事が終ったのでお茶を飲みに這《は》いだしてきたところだという印象であった。駅前広場に十人ほど背広姿の若者たちが集って立話にふけっていたが、その様子は、衝動や情熱を持てあましているというよりは、むしろ、くったくしてあくびをこらえているというようなところがあった。どこにも熱い頽廃《たいはい》の沼気はないようだった。
深夜喫茶の本場は新宿だというので、新宿へいってみた。ここは居住者の土地というよりは通過者の土地である。通過する人びとがおとしてゆくものでにぎわっている。五階建の喫茶店が電車通りに面して、蒼暗《あおぐら》い、紙屑《かみくず》だらけの荒野のなかに白く輝いている。二階が�一般席�、三階、四階、五階が�御同伴席�となっている。二階にあがってみると、天井から造花のモミジや、ブドウなどがぶらさがり、隅から隅まで明るくて、デコラ張りのテーブルが光っている。テーブルのうえには十エン玉を入れてハンドルをひいたらチョコレート・ビーンズのでてくる小さな器械が一個ずつおいてある。十エン玉を入れたらチョコレートでくるんだ豆がコロコロとでてきた。
………
深夜喫茶の帰り道
恋と若さに身をまかせ
しんみりしんみり歌おうじゃないか
ハァー、東京小唄(井田誠一作詞、鈴木庸一作曲「新東京小唄」より)
なにげなしにレコードを聞いていると、そういう歌が耳に入ってくる。まるで大正か昭和初期。�カフエ�時代ではないか。なにひとつとして変っていやしないじゃないか。と思っていたら、今度は、いきなり、�クワイ河マーチ�の口笛軍歌ときた。おやおやと思っていたら、つぎは、突如としてジャズである。チコ・ハミルトンのドラムが地平線の遠雷のようにつぶやきはじめて、やがて瀑布《ばくふ》となって世界を粉砕し、一瞬、怒りと叫びに輝いてから、事を終った男のようにひくひくふるえつつ、つつましやかに水のなかへ去っていった。
あたりにいる客は、若い人たちばかりだが、さまざまである。機械油のしみのついたジャンパーを着た工員。軽い咳《せき》をする大学生。はだしにビニールのサンダルをつっかけて肩にトレンチコートをひっかけた少女たち。毛糸の上っ張りを着てうなだれている五十歳ぐらいのおばさん。塵ひとつない背広姿でいっしんに書きものにふけっている青年。まっ赤な眼をしきりにパチパチひらいたり閉じたりしているサラリーマン。すみっこで四、五人の若者たちがお勘定をしようとしてテーブルに十エン玉やら百エン玉をばらまいていい争っている。
「よォッ、坊や、もっとだせよ」
「わるい。これっきりだ」
「よォッ、おめえダチ公つれて大きな顔してよッ、ダチ公の面倒見てるのならよォッ、それっきりってこたあねえだろ」
少女が声をかける。
「坊や、坊や、いいのよ、いいの。あたしが払ってあげるからね。無理しなくたってサ、いいジャン」
坊やはだまっている。
兄ィは酔って吠える。
「お、お、お。スケの助太刀か。お安くねえぞ。いつからカンケイしやがった。おれをだましたな。ちゃんと知ってるぞ。よォッ。どうしようッてんだナ。おれのペテンはマブイんだぞ」
「わかってるわよ。これでいいジャン」
「お、お。スケがだしたぞ」
「坊や。もうすんだの」
トレンチコートの少女がアイシャドーを入れてフクロウのように見える眼をきょろりと瞠《みは》って姉《あね》さん女房みたいな口のききかたをすると、�坊や�と呼ばれた丸刈りの少年はふくれたまま口のなかで、うむ、とか、なんとかつぶやいた。
街道の雲助みたいに無精ひげで顔を埋めた兄ィは、凄《すご》むわりにどことなくタヌキが草むらで眼をパチクリさせているようなところがあり、またしても、よォッ、よォッといって、今度は少女にからみはじめた。少女はうるさがって、便所にかくれた。ほかにもGパンの生地で詰襟のジャンパーをつくったのを着こんだ若者が一人、ぼんやりと兄ィと若い恋女のやりとりを眺めていたが、この一群はついに何者であるのか、私にはわからなかった。兄ィの声が酔ってあまり高いのでレジの女が警察に電話した。刑事がやってきた。兄ィはゴム草履《ぞうり》をペタペタ鳴らしながら眼鏡をかけた中年の刑事につれ去られていったが、その途中で私の顔を見てニッコリ笑い、どういうわけか、やあ、やあ、といった。
こういうゴタゴタは一回きりしかなかった。ほかの客たちは、てんでんばらばらな方向を向いたまま、知らん顔をしていた。学生はうなだれて本を読み、青年はせっせと書きものをつづけ、サラリーマンは眼をパチパチさせ、レコードはたえまなく鳴りつづけた。水族館で見たフグのようだ、と私が思う。水族館のフグは蒼白な光を澱《よど》ませた水槽《すいそう》のなかで、黄昏《たそがれ》のような微光のなかで、めいめい勝手な方向を向いて、退化した、小さなヒレをそよがせている。おちょぼ口のどんぐり眼だが、まったく活動力を失って、その退化しきったヒレはただ水のなかで体が倒れないように舵《かじ》としてくっついているだけである。フカにかじられてもいいように頭だけが鉄のように堅い。薄明の水のなかに佇《たたず》むその石頭のなかにどんな感想がつまっているのか知りようもないが、見るからに�孤独�を凝固させたらこうなったのだという顔である。
「……都条例により、お客さまにお願い申しあげます。客席内でお眠りになりませんよう、お願い申しあげます。なお、ただいま時刻は午前三時ジャストでございます」
ときどきレコードがやんだかと思うと、そういう声が聞えてくる。マネジャーという人がいたので聞いてみると、一時間ごとに繰りかえすのだということである。国電なり都電なりの始発がでる頃まで一時間ごとにそうやって客の目をさましつづけるのである。客たちは背を正したままの恰好で眼をパチパチさせながらひたすら暁を待ちつづけるのだ。鈍行の二等の夜汽車みたいだ。たいへんな苦役である。人びとは、うとうとしながらも頭をあげて、フグの顔をよそおいつづける。
私の席のまえに五十がらみのおばさんがすわって、手帖をテーブルにおいている。手編みらしい毛糸の上っ張りを着て、くたびれた買物袋を持ち、ぼんやりした顔つきで暁を待っている。聞いてみると、八王子あたりからやってきたらしい。今日は帰らないと子供たちにいってある。ここで夜をあかして、明日になればすぐに仕事の残りを片づけにでかけるという。�仕事�というのは、手帖をかいま見た数字や人名の表によれば、保険の勧誘ではないかと思う。旅館に泊らないのかと聞いたら、ここのほうが安いし、お茶を飲んだらサービスにゆでたまごやカステラがつくから、という。はじめての御経験ですかと聞いたら、いやもう三度か四度めだという。それだけつぶやいたら彼女は口を閉じ、眼を薄く閉じ、鉄床《かなとこ》のように厚くたくましいだんご鼻の孤独にもぐりこんで、でてこようとしなくなった。
ほかに何軒もの深夜喫茶を歩いてみたが、どこでもだいたいおなじような雰囲気だった。�一般席�では一人っきりの少年や一人っきりの少女が疲れて、くったくしきった顔つきで泥のようにしのびよる眠りと争いつつ夜のあけるのを待っている。�御同伴席�では二人づれが肩をよせあって池の底のような微光のなかでひそひそと語りあったり、放心にふけったりしている。
一つの小さなテーブルに向った二つの椅子はまえを向くしかないので、彼ら、彼女らは汽車にのったように行儀がよい。どの顔にも�生活�のヤスリの跡があったように思う。朝から晩まで一日じゅう追いまわされて、やっとここにきて息をついた、というような表情がある。彼らがどこではたらいているのかは聞かなかった。おそらく新宿界隈の大衆食堂、ラーメン屋、喫茶店、酒場、あるいは工場や会社の深夜勤のあとだろうと想像する。
電車がなくなってもタクシーがゴマンとあるのに、彼ら、彼女らはそれを拾わなかったのである。恋を遂げるためなら旅館が無数にあるのに、そこにも泊らなかったのである。人前はばからずに抱きあい、キスをしたらいいのにと私は思ったが、たいていの二人づれはつつましやかだった。朝の軒さきのスズメのようにおずおずしていた。不感症の中年女どもの糾弾の声、たえず風邪をひくまい風邪をひくまいと用心している偽善の�良識�おじさまたちの声をはばかっているのか……
舗道や壁やゴミ箱などにカミソリのような若い朝日が射《さ》してきた。あちらの辻、こちらの辻に、一人、二人、背を丸め、襟をたてて、だまりこくったまま電車道をわたってゆく人影がある。夜の影ともつかず、朝の影ともつかず、泥棒猫のように穴や裂けめから道に這いだして、どこかへ消えてゆく。
『地球の上に朝が来る』という昔の流行歌の一節を思いだす。それを私は『子宮のうえに朝が来る』と書きかえ、すばらしい詩じゃないかと思ったりしながら、小屋のようなお茶漬屋に入る。
ファッション・ガールかなにかと思える二人の女がよごれたカウンターに肘《ひじ》をついて、お新香を頬張りながら鼻声でたがいの手相を見あっていた。金星丘がどうの、運命線がどうの、という声が聞え、私はなんとか線が二つに分れてるの、という声が聞えた。どういうことなの。あくびまじりの心配声が聞えた。つまり私は二重人格ってことなのよ。吐息をついて声が答えた。
二人の女はせっせとゼンマイの煮つけを食べ、カマスの焼いたのを食べ、御飯のおかわりをし、お新香を食べた。食べているとちゅうで、二重人格ってことなのよ、といったほうの女が睡眠薬を飲んだ。
ゼンマイを食べ、カマスを食べ、御飯のおかわりをし、お新香を食べる頃になって、あ、私、きいてきた、今日はおかしいわよ、眠い、といったかと思うと、茶碗とお箸《はし》をほうりだして、そのままそこヘコロリとよこになってしまった。お茶漬屋のおかみさんがレインコートを持ってきてやると、女は薄く目をあけて、つぶやいた。ああ、そのレーンコート、Aって字をかたどったつもりなの。どうしたのかしら。眠いの、おばさん。そうつぶやいて彼女はきれいに足を組んでいぎたなく眠りこけた。
一晩見て歩いたが、私はフグの凝固した孤独のほかにはなにも見なかったような気がする。ヘビー・ペッティングも見なかったし、睡眠薬遊びも見なかったし、匕首をちらつかす青い梅の実も見なかった。ねむけざましに手の甲ヘタバコをおしつけるという光景も見なかった。見たのは、一日をまじめにはたらいたあとの正しき、よき人びとが行き場所に暮れてひたすら暁を待っている姿、または、非難されるにはあまりにつつましく行儀よい恋人たちの後ろ姿だった。
九月十一日から四月十日までが「風俗事犯等ノ取締リノ強化月間」である。私が見たのは十月二日の夜である。鞭《むち》でたたかれたあとの小学生を見たようなものである。おそらく、しばらくたてば、もとへもどるのだろう。いつもこんなふうであるかどうかは、毎夜毎夜見て歩かなければわからないことである。
「国家公安委員会」は社会の安寧秩序のために全員一致で深夜喫茶の全廃に賛成したという。すると、どうして巨額の選挙違反や汚職など非行成人《ヽヽヽヽ》たちの徹底的摘発にも�全員一致�してのりださないのだ。深夜喫茶だけが非行少年の�悪の温床�ではないだろう。目も鼻もあけていられないような水源地の汚濁をそのままにしておいて、下流の田ンぼのちょろちょろ流れを澄ませようとするのに似ていはしないか。