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ずばり東京17

时间: 2019-07-26    进入日语论坛
核心提示:    酸っぱい出稼ぎ 東京飯場 朝、五時半に起されて山谷へいった。二日酔いと睡眠不足で体のあちこちがきしみ、足がふらふ
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     酸っぱい出稼ぎ 東京飯場
 
 
 朝、五時半に起されて山谷へいった。二日酔いと睡眠不足で体のあちこちがきしみ、足がふらふらした。前夜おそくまで都内某所に沈没して安岡章太郎と二人、シャンソンの鳴きっくらをしていたのである。ゴリラのように吠《ほ》え、ウマのようにいななき、オケラのようにすすり泣いたのである。酒場の壁が粉ごなに砕け、ピックルスが一瓶のこらず腐ったところでひきあげた。おかげで頭のなかにどんよりと青い濃霧がたちこめている。彼が万年二等兵のときにつくったという奇抜な厭《えん》軍エロ数え歌の一節、二節がとりとめもなく浮いたり沈んだりする。
 山谷の住人たちが、毎日、�手配師�に買われて都内の建築現場へ動員されているというので、行ってみた。都電の泪橋《なみだばし》の停留所のあたりにたくさんの立ちん坊がいた。ゴム長、地下足袋、ねじり鉢巻き、ジャンパー、印半纏《しるしばんてん》。灰いろの荒涼とした朝のなかで肩をすくめ、影のように立っている。もみ手したり、ふるえたり、町角にミカン箱を積んで焚《た》き火《び》しているものもある。『道路法規を守りましょう。物置じゃありません』と書いた警察の立看板が電柱にもたれていたりする。
 頬《ほお》の赤い、素朴な顔つきをした長身の青年が一人いた。彼は�風太郎�ではない。仙台の近所から東京へ出稼ぎにやってきたのである。田舎にも金華山の漁港あたりでカマボコをつくったりサンマをひらいたりする仕事がないわけではない。一日六百エンから七百エンにはなる。しかし、東京の建築現場のほうがいい手間賃がとれると聞いたし、田舎では顔を知られていてなにかとうるさくわずらわしいから東京へでてきた。山谷では宿賃が安いと聞いたのでここの簡易旅館に泊って毎日はたらきにでているのだ。仕事場は毎朝手配師がやってきて世話してくれる。手配師は労賃から一人頭百エンから二百エンぐらいを世話料としてカスる。トラックにつめこまれ現場へいくこともあるが、このところはバスでいく。仕事がつらくて三カ月体がもてばいいほうだからいずれ農繁期になったら田舎へ帰るつもりだ。
 方言がつよくてよく聞きとれないが、おおむね青年はポツリ、ポツリとそのような話をしてくれた。仲間はいないらしく、一人で町角にたたずんでいた。しばらくするとジャンパーを着た手配師がやってきた。青年は手配師と顔なじみらしく、ちょっと目で合図して、バス停留所のほうへ去っていく。帽子をぬいで、ていねいに挨拶して去っていった。後姿を見送るとおなじ仕事場へいくらしいのがどこからともなく集り、十人ほどが一団になっていた。
 小さな、きたない食堂に入って「豚汁・ライス・五十エン」をどんぶり鉢で食べていると、中年の男が一人入ってきて酒を飲みはじめた。こちらが新顔だと見てとったので、いいところを聞かせてやりたくなったらしい。朝からイッパイやれるなんてえらいもんじゃないかと誘うと、一日はたらいたら一日遊ぶのがおれの主義で、今日は雨が降ってるから後楽園か浅草へでもいこうかと思ってるところだという。しばらく話をしていると、いつまでもこうしちゃあいられねえから、近日中に百万エンで焼きソバの屋台をだそうと思ってるんだといいだした。どうやら本物の�風太郎�らしい。そんな無邪気なホラを真顔で吹くのは心が渇いているのだ。なにか話をしたいのだ。聞いてもらいたいのである。やせた小男で、ゴム長に防水ジャンパーといういでたち。ひげはきれいに剃っている。もう二年ここに住んでいるという。いきたくなったらどこへでもいくがここがいちばん気楽でいいといった。
 中年の一人者だが、小さな、まるい、ちょっとびっくりしたような茶いろの瞳を覗いてみると、毒がなくて澄んでいた。この男にはどことなく子供っぽいところがあり、のんきな怠けものらしいその横顔はひどく私を剌激した。うらやましくなってきた。世間ノ奴ラハウロチョロ働イテオルカと朝からイッパイひっかけて見くだしてやるのはさぞや気持がいいだろうと思うのだ。
(……いずれ山谷でそうやって暮してみるつもりである。じつはこういうのが私のオハコなのである。しばらく忘れていた。身を捨ててこそ浮ぶ瀬もあれ、谷のドングリ、という)
 近頃は飯場のことをそうは呼ばないで、�寮�だとか、�宿舎�だとか、�合宿�などと呼んでいる。三宅坂のところにオリンピックの高速道路をつくるための大群落がある。大建設会社が四社ほど入り三千人からの労働者が住んでいて俗には�飯場部落�と呼ばれている。鉄骨二階建の組立式バラックで、いつでもとりこわして移動できる仕掛けである。夫婦や子持ちで働いている人もあるので、一階にはそういう人が住み、二階には一人者が住んでいる。道を歩いている人をからかってはいけないからと窓に目かくしの板をうちつけた棟も一つあった。ある棟をのぞいてみると一階は台所になっていて、田舎そのままの原始的なカマドがあり、大釜がかけられてあり、裸電灯がぶらさがっている。東京のまんまんなかにいるのか蔵王の山のなかにいるのかわからなくなってくる。棟の�班長�の労働者がパッチ一つになって赤ン坊を抱き、火のおちかけた七輪でキンタマ火鉢をしながら、ああ、現代である、アフリカの猛獣狩りの記録映画をやってるテレビをじっと見ていた。
 二階は一人者たちの部屋であるが、薄いベニヤ板の壁がむきだしになっていて、鏡もなければ火鉢もない。ミカン箱が机がわりに一つころがっている。裸電灯がぶらさがっている。壁には映画雑誌からはぎとったヌード写真や少女スターの写真がはりつけてある。ヌードはみんな日本女ので、西洋女のは一枚しかなかった。荒涼としたタタミのうえに岩手の山奥からきたお百姓さんが二人寝ころんでいた。私たちが入ってゆくと、起きあがって迎えてくれた。タバコを吸おうとしたら直径三十センチくらいもある金属の巨大な灰皿をだした。よく見ると自動車の車輪についているホイール・キャップである。道におちてたのを拾ってきたのだそうである。
「……悩ましい写真がはってありますなあ」
 壁をさしてからかったらお百姓さんはだまって笑い、しばらくじっとまじめな顔つきで考えこんでいてから、家内と遠くはなれているので、こうやって写真で思いだしてはなぐさめているのだという。三カ月か四カ月、長くて半年、それ以上一年もはなれていたらこじれてダメになるともいった。まじめなまじめな顔つきでヌード写真を見つつそうつぶやくのである。
 東京のあらゆる飯場ではたらいているのは日本全国からやってきた農閑期のお百姓さんたちで、あらゆる地方の人がいるが、とりわけ、秋田、新潟、青森、岩手、山形、福島、東北の人たちが多いのである。九州の人たちも多い。話をしていると二人が仲間に入ったが、これは別府と大分からきた人たちであった。べつの建築会社の下請をしている組の飯場が杉並区清水町にあるのでいってみたがそこは秋田県の人が多い様子であった。みんな縁故でそれからそれへとイモヅル式につながってやってくるので、いきおい同郷者がかたまることになる。
 人びとは、毎日、朝八時頃から夜七時頃まではたらく。休憩は昼一時間である。拘束十一時間、実働十時間である。工事場によってちがうが、日給は千二百エンから二千エンくらいまで。ホテルの工事などは値がよく地下鉄工事がいちばん安い。けれどもモグラをしていると暗がりだからサボりやすいということがある。同時に落盤や崩潰《ほうかい》という危険も高まる。手袋、タバコ、酒、地下足袋、ゴム長などは会社が大量に買いこんで割安に売ってくれる。宿舎で使うフトンは賃貸ししてくれる。一枚につき一日七エンである。三枚使うと二十一エン。食費が三食で二百エン。日給千二百エンの人は手取りが千エンぐらいになる。食事は飯場によってちがうが、どんぶり大盛り一杯盛りッ切りのところもあるし、オカズはいけないが御飯だけならいくら食べてもよいというところもある。けれど、だいたい一日の食費は二百エン見当であるらしい。三食で二百エンだ。
「……いくら大量に買うから安くなるといっても、二百エンじゃあ、タカが知れてるでしょう?」
「そうです」
「ミソ汁にワカメがちょっぴり、福神漬かタクワンがついて、サンマかアジの開きが一枚か一枚半、こんなところですか?」
「そう。そうです」
「仕事ははげしいんでしょう?」
「そうです。朝から晩までのべつ幕なしにはたらきます。食って寝て風呂に入るだけがたのしみです。雑談するのもフトンに入ってするんです」
「休日は何日ありますか?」
「月に二日です」
「そんなにはたらいていたんでは、将棋、マージャン、花札もやれんでしょう」
「現場から帰ってきてメシを食ったらそれっきりですね。なかに好きなのがいてやってはいますが、たいていはドタン、バタッ、グーッです」
「ミソ汁とサンマ一枚でよく体がつづきますね」
「ええ、まァ、なんとか……」
 そういう話をしていると、さきにヌード写真のことをいった中年の岩手出身のお百姓さんが(……この人は自分の田舎のことを�岩手でもいちばんのチベットだ�といった)ひくい声で、自分の子どものときには、くにではヒエ、アワ、ドングリを食べるばかりで、米の飯など年に何度か食べるきりであったという話を短く、口重く話した。けれどその語調は、現状を肯定しているのでもなく否定しているのでもない語調である。
 大分からきた人は、子ども四人を田舎にのこし、夫婦二人で飯場に泊りこんではたらいている。奥さんは盆と暮れ、年に二回帰郷するが、彼は年にせいぜい一回帰るだけである。秋田の人に聞いたら新婚早々で東京へでてきた若者が何人もいるという話である。あれを聞き、これを聞いた。なおあれがあり、なおこれがあった。この人びとは農閑期になると東京へでかけ、農繁期になると田舎へ帰る。それも体を休めに帰るのではないのだ。田舎へ帰れば帰るで、これまたタネまき、田植、草とり、刈入れ、朝から晩まで、のべつ幕なしにはたらかなければいけないのである。農閑期、農繁期、東京、チベット、いつでもどこでもミミズのようにモグラのように日本人ははたらかなければやっていけないようなのだ。
 どこの阿呆が�レジャー・ブーム�だの、�バカンス�だのとうわつきやがる。昔、坂口安吾が、声を嗄《か》らして、日本人よ、堕ちよ、堕ちよ、堕ちたそのあげくにさとれと、いま読みかえせばヴォルテールのような明るさと健康さで叫んだことであったが、いまの私としては、朝から晩まではたらきつづけるよりほかにいたしかたない日々をうけ入れながらも、遊べ、遊べ、徹底的に遊べと書きつけたい気持がわいてくる。
(身を粉にしてはたらくことがたのしいのだというマゾヒスティックな�快楽説�に私は賛成しないのである。どれだけのんびり怠けられるかということで一国の文化の文明の高低が知れるというのが私の一つの感想である。この点では日本は�先進国�でもなければ�中進国�でもなくハッキリと、�後進国�だと私は思う)
 杉並のお邸町のただなかにある飯場の一棟で、すごい秋田弁で、私は、ある�班長�から、飯場労働者は渡り鳥みたいに自分の�自由�をあてにして団結をしないからほんとの自由を手に入れることができないでいるのだという、素朴だが痛烈な批評と、�五反百姓でもいまは東京サいかねば食っていけねェだ�という二つの言葉を聞いた。大分の人はこういうことをいった。自分の田舎《くに》では都会へ出かせぎにゆく家ほど裕福である。田舎では人柄や職種で人格を判断してくれない。どんな山奥へいっても、どれだけ金をかせいできていい恰好をしているかということだけで、こちらを尊敬したり、軽蔑したりする。早い話、田舎をでたときとおなじ服で田舎へ帰ったら畦道で出会っても誰もあいさつしてくれない。それがどうだ。ちょっといい服をしてたらたちまち挨拶をしてくれるのだ。だから東京の飯場では、田舎へ帰る一カ月前になったらみんな必死ではたらき、それまで遊んでいたのをすっかりやめて、仕事がおわったら宿舎へ帰ってチーンとおとなしく寝ている。パチンコもしなければ、飲みにもでかけない。ひたすら田舎へ着て帰るニシキを手に入れるためなのだ。金、金、金、この世はすべて金なのだ。
「あなたのところはどうですか」
 岩手のチベットから今日東京へきたばかりだという、金時さんみたいに頬の真っ赤な若者がせんべいブトンの山にもたれていたので聞いてみたら、若者は、しばらく考えてから、重おもしく幼なげに、
「おんなじだァ」
 と、ひとことつぶやいた。
 私は大阪生れの大阪育ちで、農村のことはほとんどわからないといってよい。都会趣味を気どる人を見るとボロばかり見えて軽蔑したくなる。ところが、汗水たらして手足を使って苦しんでいる人を見ると、頭から尊敬したくなるのである。
 二十代の農村の人はみんな会社員になりたがる。三十代、四十代のはたらき手は農閑期に体をやすめないで東京へでてきてしゃにむにはたらく。農繁期になれば田舎へもどって、またしてもしゃにむにはたらく。飯場の人たちはみんな年齢を聞けばびっくりするくらい老《ふ》けた顔をしている。一冬《ひとふゆ》あくせくはたらいてたまるお金はわずかなものである。毎年、毎年、東京へでてこずにはいられない。女房や子供と眠い目をこすりこすり書いた手紙一本でつながるきりである。日本の人口の三割強を占める農村ではなにごとか、ふたたびつらいことが起りつつあるように思えた。�出稼ぎ�の現象はあまりにも深く日本国の背景に食いこむ酸っぱい現象であると思えた。そのことは痛く感じられた。いつかもっと深く覗いてみたいと私は思った。
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