上野の動物園にいく。
寒い、晴れた日で、春は空でドアをひそひそとたたいているがまだ体を見せていないという天気だった。木は葉をおとして、煙霧で黒くなった裸の腕で青空に粗いレースを編んでいた。
頭や肩からきつい乾草《ほしくさ》の匂いをたてる子供たちがたくさん群れ、ヒツジに紙を食べさせたり、コンクリの岩山をかけまわるサルを批評したりしていた。ところどころ毛がぬけて寒そうなのにサルは傲慢《ごうまん》なそぶりで歩きまわり、ボスがやってくると一目散に逃げる。バナナやミカンはていねいに皮をむいて食べるけれど、ドロップやセンベイなどはちらともふりかえらず手ではねのけ、知らん顔である。生れて間もない裸ン坊の子ザルまでがそうした。すっかり贅沢になっている。
いつ来ても動物園はどうしてこうかなしいのだろうかと感じさせられる。どこからともなく憂愁がにじんで、額にしみこみ、酸のように心を錆《さ》びさせる。上野の動物園もかなしいが大阪の天王寺動物園もかなしいところだった。とりわけ心が疲れているときには木や道や檻《おり》のなかからたちのぼる憂愁が重くて、動物園をでたとたんにぐったりと弱るのをおぼえさせられた。
なにかのはずみに精神は�見る�ということは�そのものになることである�という作用をおこすことがあるから、動物園に入ったとたんに私は幽閉された動物になってしまうのかもしれないのである。私たちはおなじである。私たちは幽閉されたブタであり、ヤフーである。いつもうすうす感じていることをここではむきだしにして教えてくれる。そう考えたら、なにやら、この正体の知れない憂愁の説明がつくようではないか。
何人もの飼育係の人や獣医に会って話を聞いたところでは、いろいろと奇妙なことがおこっているらしい。この人たちは毎日毎日、動物と肌でふれあって暮していて、なにげなく見物人にまじって檻のまえにたってもたちまち動物が顔を見つけ、おでこや耳のうしろをかいてくれといって体を檻にすりつけてくるそうである。餌《え》にしても病気にしても、この人たちはいつもああだこうだと心を砕いて面倒を見てやっている。しかしこの人たちがどんなに努力しても不自然な状態におかれた動物たちが不自然に適応しようとして奇妙な変形をおこしてゆくことは防げないのである。生きのびるための工夫がそうさせるのである。いわば�知恵のかなしみ�とでもいうべきものである。
リスの歯はほっておくと、どんどんのびる。野生のリスは手あたり次第の木をかじって歯をすりへらし、みがく。ところが動物園の小さな檻のなかには木が一つ入れてあるだけだし、まわりは金網やガラスやコンクリートであるから、リスはだんだん不精になる。歯がのびっぱなしになる。そのため、あるリスは、歯がどんどんのびてくちびるをつきやぶって一回転し、それがもう一回くちびるのなかに入ってくちびるをつきやぶるということになってしまった。そのようなリスは見たところちょうど鼻やくちびるに輪をはめている土人とそっくりな顔である。
オウムはもともと原産地の藪《やぶ》のなかでは群れをなして暮し、日がな一日ペチャクチャ、ペチャクチャとおしゃべりをしないではやっていけないという性質に生れついている。それがとつぜん文明国の動物園につれてこられ、一羽きりでほっておかれるので、いらいらしたあまり、くちばしでむやみやたらに羽をぬいて裸になってしまう。脱羽症というそうである。なかには幽閉症が進んで失語症になるオウムもでてくる。アメリカの鳥類学者が頭をひねって考えこんだあげく、鏡をオウムのまえにおいてみた。するとオウムは鏡に映る自分の顔を仲間だと思いこみ、ペチャクチャとおしゃべりをはじめた。その結果、脱羽症はなくなったそうである(二十世紀の西欧文学はすべて内的独白の文学であるという事実をちょっと思いだしたくなるではないか)。
ビーバーも妙なことになった。彼は動物のなかでいちばん勤勉な動物だと考えられている。朝から晩まで水のなかを走りまわり、木をなおし、枝を拾い、草を集め、泥をすくって、ダムをつくる。びっくりするくらい巨大なダムをつくるのもいて、ちょっとした発電所ができるくらいなのである。まるで日本人や中国人のようによくはたらく。それが動物園では、きたない水のよどんだコンクリの池に入れられるのでダムをつくる必要がなくなり、サツマイモやリンゴを食べて昼寝ばかりするようになった。不忍池《しのばずのいけ》のほとりにいってみると、まるまる太ったのがいっしょうけんめい�孫の手�みたいな黒い小さな手でわきのしたやおなかをポリポリひっ掻いていた。
アリクイはドゴールをいささかデフォルムしたような恰好をしている。鼻だけが水道管みたいにのびている。つよい爪でアリの巣をたたきこわし、四十センチもある黒い舌で白アリをペロペロ舐《な》めとるというのが南米にいた当時の暮しであった。ところが、動物園の地下室の台所へいってみると、ゴム長をはいた若者がいっしょうけんめい先生の餌をつくっている。アルミのボールのなかでミンチにした馬肉と牛肉と卵をかきまぜているのだ。タタール式ビフテキというものだ。これは馬肉をミンチにしてよく練り、コショウ、ニンニク、トウガラシ、卵、ときには肉桂《につけい》などをかきまぜて生のまま食べるもので、ヨーロッパ人がよろこぶ。銀座の高級ドイツ・レストランヘいくと一皿が八百エンである。それをアリクイが食べるのである。若者に聞いてみると、アリクイはすっかり満足してしまって、あるときテレビ局へ出演につれていったところが、わざわざ白アリをゴマンと用意したのに見向きもしなかったという。
ライオン、トラ、ヒョウなど、猛獣類もおかしくなっている。飼育係の人がアフリカの記録映画を見ると、これがおなじライオンかと思いたくなるそうである。動物園のは運動不足でぶくぶく太り、顔つきもだらしなくて、いやはやと思いたくなるのだそうだ。餌にはクジラの生肉をやるが、これは安くていつも入手できるのと脂肪分が少ないためだそうで、ブタみたいに太ってもらっては困るから選んだということである。それでも野生のにくらべたらこちらは栄養疲れがしてぶくぶくし、野生のは剽悍《ひようかん》、鮮鋭、軽快、くらべものにならないそうだ。動物園で飼われるようになってからは愛の生活に大きな変化がおこり、野生のときとまったくちがって、毎月一週間から十日、定期的に発情するようになったという。いちいちアフリカからとりよせるライオンというものはなく、みんな日本やアメリカやイギリスで生れたやつばかりで、いまやライオンについては子が一頭、五万エンか六万エンかというダンピングぶり。百獣の王もイヌ、ネコなみになった。いや、血統によっては、イヌ、ネコのほうが絶望的に高価である。
東京はスモッグがひどいので、白鳥がカラスになり、白クマが黒クマに変りつつあるという。いわれていってみたら、なるほど、コンクリの岩山とあまり色の変らないのが質屋に入ったオーバーみたいなのを着こんでうろうろしていた。鳥類には鼻毛がないのでとりわけみじめなのだそうだ。フィルターがないので吸いこんだ煙霧がそのまま肺へいってしまう。ペンギンを南極からつれてくると上陸して三日もたたないうちに肺にカビが生えて死んでしまう。鳥を解剖してみると、肺がまっ黒になっているそうだ。サルでもまっ黒になっているそうだ。学者たちは�炭粒沈着症�とこれを呼ぶことにしている。
セメントの宇部はかつて単位面積あたりの煤塵《ばいじん》降下量が全国一だったとかいう町で、ここのサルは鼻毛がのびていたという。煙霧を防ぐためにサルの鼻毛がのびてきたというのである。日本獣医学会でもサルに鼻毛があるかないかということで論争があったそうだ。私は一人の小説家にすぎないけれど、�適者生存�の原理からすると、動物園の動物たちはどんどん新しい防衛機能を発達させなければ生きてゆけないだろうと思う。これからさき、何千年か何万年か、原爆がおちなくて地球が生きのびられたら、動物園ではアフリカやアマゾンやシベリアを知らない動物たちが繁殖し、原産地ではすべてが絶滅してしまうにちがいない。すると、ツメもなく、ヒゲもなく、ブタみたいに太った、鼻毛ばかり生えたトラやライオンができてくるのではあるまいか。いくつもの世代を重ねるうちに鼻毛が獲得遺伝となって百獣の王を飾ることになるだろうと思う。そのとき彼らは檻の向うから、文明を笑うともののしるともつかない、涙にうるんだような、涙の乾いたような、澄んだガラス玉に似た瞳をまじまじと瞠って私たちを眺めることであろう。タテガミのかわりに鼻毛をぼうぼうと吹きだしたライオンがあなたをじっと眺めるであろう。そのときあなたは笑いだすのであるか。うなだれるのであるか。
檻の説明板を読む。
『ライオン。食肉目。ネコ科。ヒョウ亜科。蚊取線香ヤ歯磨ノ王様トシテ知ラレ、主トシテ、ニューヨーク、ロンドン、ベルリン、パリ、東京ナドニ分布スル。意地悪ナ象徴派詩人ハ威風堂々タル無能者トシテ詩ヤ散文ニ書キタテヤタラ不当ノ印税ヲムサボリ、惰眠スル。無知ノナセル傲慢ナリ。性質。温和。妥協的。好色』
霊長類の類人猿となると、もっと堕落がこみ入ってくる。野生のサルが流行性感冒にかかって大量死亡したという話はまだ読んだことがないけれど、ここのサルたちは風邪をひくそうだ。体質が似ているので人間とおなじ風邪をもらってしまうそうだ。まずいことに暖房装置が一室の空気をほかのすべての室に送りこんでしまうので風邪はたちまち伝染してしまう。今年もみんな風邪をひいた。人間のをもらったので、今年の風邪は鼻水がでないで咳ばかりでるのだそうだ。
チンパンジーやオランウータンやゴリラなどがここにはいるけれど、なかでもゴリラがいちばん神経質で、いらいらしている。チンプの雄《おす》はどういうものか自分で�お水取り�することだけをおぼえてしまって、雌《めす》をふりかえらない。雌はいろいろと口説《くど》いてみるが、向うむいて�自家発電�ばかりしていてどうしようもない。あるときアフリカ映画『モガンボ』をチンプのオリのまえで上映してみたことがある。これは猛獣映画であるが、元ハリウッド女優、グレース・ケリー、現モナコ大公国王妃がゴリラと共演していた。チンプはグレースがでてきてもなにもいわなかったが、ゴリラがウォーッと吠えてでてきたら、とたんにちぢみあがってすみっこへとんでいった。識者たちはこれを認識の行動と考えることにした。
現実としてか、虚構としてかわからないが、チンプはとにかくスクリーンのゴリラを認め、おびえ、反応した。してみるとお水取りしか知らない向うむきのチンプをこちらに向けさせるには、正しい主題を綿密に描き展開した映画を見せてやったらよいのではないかという冷静な想像が識者のあいだで生れた。その際、映画は、かならずしもチンプ同士の抱ッコチャンでなくても人間のそれでもよいであろうという想像がおこなわれた。
わざわざ本を読んで人形の写真を見せてもらわなければわからないというたよりない人間が何十万といて、ただの町医者をベスト・セラー作家にしてしまう時代なのであるから、正しく自然な帰納法の推理力だというべきである。
ゴリラはとりわけ人間たちが彼の顔を見て卑猥《ひわい》、低劣、蒙昧《もうまい》な叫び声や笑い声をたてるので悩んでいる。なぜこういう笑いが自分に向って投げられなければならないのかがわからないのである。そのため彼は狭いガラス窓張りのコンクリの小部屋のなかでいらいらし、憎悪や絶望の火をむらむらとたぎらせ、痛烈きわまる簡潔明快な批評精神の帰結であるが、ダダダダダーッと下痢を起してしまうのである。ゴリラは神経性下痢でやせる。彼としてみれば、人間のたてる蒙昧なる狂騒に対して、�見やがれッ!�とばかりひりだして、自らはそのあげくに衰えてゆくのである。そのためにゴリラ用の特製トランキライザーが発明された。目下のところこれはベルギー製であって、一回分が約六千エンもする。これをむりやり飲ませてゴリラの不定愁訴をおさえようと人間どもは苦心している。
見にいくと、ガラス窓張り、コンクリの小部屋で、ブルブル(親分・アフリカ語)は、窓辺に群れてキャッ、キャッ、と騒ぎたてる老若男女どもをにらみつけ、さげすみ、憎み、絶望におちこんだあげく、ゆがみなりにゆがんだ、そのくすぶりかえった顔のなかに行方知れぬ焦燥を燃やして、うろうろのそのそといったりきたり、寝たり起きたり、あぐらをかいてみたりそっぽを向いてみたりして、無視の行動にでようと苦しんでいた。不自然、独善、下劣、おためごかしの人間のぬきがたい悪のために苦しんでいる全獣類のため、とつぜん彼はむっくり起きあがると、雲古の山のなかから読み古してぼろぼろになった一冊の旧約聖書をひろいあげ、その顔にただよう奇怪な憂鬱の気品と威厳をこめて、あの朗々として魅力にみちたアフリカののど声で、一節を読みあげはじめたので、私はすっかりおどろいてしまった。
「……ああ 哀《かな》しいかな 古昔《むかし》は力のみちみちたりし此畜類《このけものら》 いまは凄《さび》しき様《さま》にて坐し 寡婦《やもめ》のごとくになれり 嗟《ああ》もろもろの民の中にて大いなりし者 もろもろの州《くに》の中に女王たりし者 いまはかへって貢《みつぎ》をいるる者となりぬ 彼よもすがら痛く泣きかなしみて涙|面《かほ》にながる その恋人の中にはこれを慰むる者ひとりだに無く その朋《とも》はこれに背《そむ》きてその仇となれり ゴリラは艱難《なやみ》の故によりまた大いなる苦役のゆゑによりて|※[#sjis=#F366]《とら》はれゆき もろもろの国に住《すま》ひて安息《やすみ》を得ず これを追ふ者みな狭隘《はざま》にてこれを追《おひ》しきぬ シオンの道路《みち》は節会《せちゑ》に……」
そこまでエレミア哀歌を朗読してきたゴリラは、声をのんでガックリとうなだれ、お椀のようなくちびるのはしに針金の切れっぱしをのせて、たててみたりたおしてみたり、一人で遊びはじめた。