趣味は、と聞かれたら、ひくい声で、読書ですと答えることにしている。実益は、と聞かれたら、うろうろしてから、やっぱりひくい声で、文章ですと答えるのである。それでも相手が満足しないで音楽とか画とかをたずねにかかると、どちらもいいけれど、むしろ画のほうが好きですと答える。ええ、もちろん魚釣りも大好きですが。
画は眺めるばかりで、どうしてその画がそこにかけられるようになったのかということについてはほとんど考えたことがない。パリの画家のことについてはいろいろと読むことがあるけれど、東京の画商のことは率直にいって、ほとんど考えたことがない。つまり、自分で画を買おうなどと真剣に思いつめたことがないからである。画を買うというのは、なにかたいへんめんどうで、おごそかで、おそろしく高くつくものなのだという気持がある。自分の勉強部屋の壁に画が一つあってもいいと思うことはしばしばだけれど、かけておきたい画はどうにもこうにも値が高すぎて話にならないのである。
一九六四年度の『美術年鑑』によると、そこに登録されているだけでも東京の画廊は九十九という数字にのぼる。びっくりして目をパチパチさせていたら、識者はつまらなさそうに、なにこれでもブームがすぎて整理されたほうで、いまだって泡沫《ほうまつ》画廊を数えればとても数えきれたものではありませんというのである。いまから二、三年前には、昨日パチンコ屋だったのが今日、画廊になって、明日は、ラーメン屋になるというようなぐあいだったそうだ。
画商そのものの数はふえないけれど画廊の数だけがやたらにふえている。この理由は天才たちとビル・ブームである。毎年毎年あちらこちらの大学から画の天才たちがぞくぞくと送り出され、自分の画だけを個展として公表したいという衝動がおさえきれないので、その要求にこたえて画廊がどんどんつくられたのだといういきさつがある。そこヘビル・ブームが起って、額ブチにはまった画がどんどん求められるようになったのだといういきさつもある。新しくビルが出来ると、会長室だの社長室だの、役員室だの応接室だのと、むやみに壁がたくさん出来たのである。
すべて人は空白なるものを見つけると埋めずにはいられないという性質がある。会長室の壁であろうと、未亡人の温かくて暗い小洞穴であろうと、おなじである。男は空白であるものを見ると黙っていられなくなるのである。花束、香水|瓶《びん》、小切手帳、男根、はたまた鉄砲、なんだってかんだって持ちこんで埋めてしまわないことには安心ができないのである。
ダンプ・カーが道路を見たら砂利を持ちこまずにはいられないのと同じようなものである。会長や社長や重役や秘書たちは新築のビルのからっぽの壁を見て画商のところにかけつけ、梅原はないか、林武はないかとあさってまわったのである。新しい部屋の住人たちはおおむね六十歳以上であり、かつ、もろもろの用談をなだらかにすすめる必要があるので、一目見てわかる画だとか、空気を乱さない画だとかが必要であった。そこで富士山や浅間山やどこかの可愛い漁港の画などが求められた。花ならバラがいちばんよかった。バラは四季咲きであるから、いつかけておいてもよい。
豊満な若い女の裸体画や、ニワトリをしめ殺したような画はなんとなくおちつかないのでよくなかった。むんむん体温のたちのぼる若い女の裸を見ると老会長は千軍万馬の腕達者ではあるけれど、なんとなく血圧があがりそうでいけないとおっしゃるのである。絵具をカンバスにぶちまけただけの非具象派《アンフオルメル》の画を見てると色盲表を見るような気持になるから、これも敬遠されるのだ。バラや富士山ならいつまで眺めても血圧に影響なく�対決�しつづけられる。もちろん無名の作家ではいけない。誰ノ作デスカと聞かれてつまらなそうな顔つきで、いやナニ、梅林武三郎介だよとつぶやけば、たちまち相手が恐れ入ってしまうような人の作品であるにかぎる。梅林が売れッ子で入手できなければ、そうだナ、なんぞギターと果物のシャレた画か、そうだナ、あれだ、ほかに君ンとこにはバラか富士山の画はないかね?……
株の上がり下がりが画の値にひどくコタエるものらしい。画は株につぐ有価証券であるから当然のことである。株のブームが終り今年は不景気だから画の値は去年の夏頃からガクンとおち、ビル・ブームもそろそろ天井をつきだしたので売れゆきが止り、さらにガクンとおちた。画商たちはひどく困っている。金づまりだからストックをなるたけ手放したいと思っているところへ、いままでのおとくいさんが手持の分を放出して換金したいとおっしゃる。シブイ顔を見せたら、たちまち、どこでおぼえてきたのか、元値で引取る画商だけとつきあえというじゃないかとイヤ味をおっしゃる。すでにいいところがみんな財布をしめているので、新しいお客さんとなると開拓するにも開拓しようがない。�贈答画�といってお中元やお歳暮のシーズンに水引をかけて右左にうごく画があるが、梅林のような�神様�級の作品だって贈答用にうごくのである。選挙のときも|実弾射撃《おかねでばいしゆう》のかわりにどんどんうごく。ミューズはマモン(筆者注・お金の神様)と堅く握手し、したがって、しばしば、ネメシス(筆者注・復仇の神様)と握手することだってある。画家は知らないがアトリエを出たら芸術は金であろうと政治であろうと、なんだってかんだって俗世のすべてのものと平気でとけあい、取引されるものである。
昔の中国では北京あたりの骨董商で、いつ見ても宋代の名陶器を店頭に非売品として飾っている店があったということである。これは非売品となってはいても、札束を積むと買うことができるのである。さる高官にオボエをめでたくしておこうと思うとその店へいって金を払い、骨董屋に暮夜ひそかに高官邸へとどけさせる。高官は一度うけとっておいてからそれを骨董屋に売払い、現金をもらうのである。すると骨董屋はちゃっかりサヤをかせいだあとで口をぬぐってその品を再び�非売品�として店頭に飾るというぐあいであった。
いまの日本の洋画だって、こういう扱いかたをされている作品がいくらでもあるだろうと思うのである。ただ、画家も画商も批評家も、みんなサシサワリがあるから口をぬぐって知って知らぬ顔をしているのである。眼の角度をちょっと変えたらこの世界も濁りに濁っていて、ちょっとやそっとでは底を覗きようがない。画商が質屋や銀行や贈賄代理業屋をやっているのである。もちろん、もちろん、パリやニューヨークも同様である。彼らのはもっと底知れず、もっと大規模である。
西銀座にある『現代画廊』という小さな画廊へいって、マネージャーである作家の洲之内徹氏といろいろ話をしていたら、原精一氏という五十がらみの大男の画家が大いに面白がって口をはさみ、画の値段というものは名刺の値段であるという意見を教えてくれた。氏は国画会の会員であるけれど、なんでも氏のいうところによれば、画家のなかには画商をとおさないで直接自分でお客のところへ画を持っていくのがいる。大臣や国税庁長官やボスなどに知りあいをつくっておいて名刺をどんどんもらい、それを持って北海道や九州地方へでかけ、代議士や社長氏や脛傷《すねきず》氏などをたずねて、画を売って歩くのだそうだ。
「……大物であればあるだけいいんです。地方じゃその名刺を見ただけで作品を買ってくれますからね。なァに、作品なんかどうだっていいんです。ええ、そう、バラだって棺桶だって、かまうことないんです。第一、画なんか見やしないんですから。金を払うのは画描きに払うのでもなければ画に払うのでもないんです。名刺に対して払うんですからね」
洲之内徹氏は苦笑していった。
「そういうことはあるでしょうなァ。なにしろ贈りものにもらった画を、包みをほどいて壁にかけてくれるのならまだしも、つぎの年に画商が思惑を起して出かけて、あの画はどうなってますか、と聞いたら、納屋あたりから去年の包みのまま出してきた、などという話を聞くことだってあるんですからね」
画は株として扱われるのだから株と同様の運命を辿《たど》ることがあるのだ。たとえば買い占めだとか、手放しだとかである。画はさっぱりわからないけれど大金持で利にさとくガメつい開高氏は梅林がいいとなりだすと、タブロォからエスキスのこまぎれにいたるまで、画商に命じて徹底的にさがし集め買い集めさせる。すると美術市場では梅林は売レルということになってどんどん値が上がり、ネコがシャクシをかついで梅林邸にかけつけるであろう。
梅林夫人は朝から晩までお茶をわかし、お菓子を用意し、来る人ごとにポチ袋をそっと握らせ、エスカレーターのついた家を建てるであろう。そこで利にさとい開高氏は値を上げに上げてから放出にかかり、ゴッソリとかせぐのである。開高コレクションが放出を完了したとき、市場にはビュノアール風の梅林作品がゴマンとあふれ、底の浅い日本ではたちまち買手がなくなって、やがて梅林邸のお茶は冷えきってしまうであろう。
こういう擾乱《じようらん》、動揺は美術界にしょっちゅう起ることである。パリの画商の大物はたいていユダヤ人であるけれど、彼らはたえまなくこういうことをやっている。国際賞についてもまた同様である。画を信ずるのはいいけれど、うかつに賞を信用してはいけない。アトリエから出ると、画は金である。いや、ときには、画家の頭のなかにあるときからして、すでに金である。売り画と描き画というものがあるのだ。梅林氏は梅林夫人のためにバラや富士山を描く。これが売り画だ。ときどき深夜ひそかに氏は自らのためにやせこけはてた、乳房が角笛みたいにだらりとなった、目玉ばかりギョロリと大きい気ちがい女の裸を描いてみたいと思うのである。しかし、角笛みたいな乳房を描くつもりでカンバスに向ったところが、いざ描きはじめると、ふしぎにギターとレモンとコーヒー挽《ひ》きの画にしかならないというようなことも起る。
日本の美術市場は限界にきているらしい。画家、批評家、美術記者、画商、誰に会ってもそういった。このうち画家は批評家と画商に気がねして、ちょうど小説家が批評家や出版社や新聞社に対してつねに明晰な伊藤整氏が早くも指摘したように仮面紳士であり、逃亡|奴隷《どれい》であるように、仮面をかぶり、逃亡して、へなへな腰、ホネのあることはなにもいおうとしなかった。しかし、当の批評家や画商やベテラン記者たちは、立場こそ異なれ、異口同音に、美術界は限界にきているのだと私にいうのであった。
つまり、いうところは、市場が開拓されつくして、買手らしい買手がいなくなり、いままでのようにおっとりしていられなくなったというのである。おまけに老大家は戦前とちがって老人医学が発達したのでなかなか死なず、作品をどんどんつくり、上がりに上がった値段をムゲに下げるわけにはいかない。かといって高いのを高いまま、アア、ヨシ、ヨシといって気前よく買ってくれる客がつくわけではなく、画商は手持のストックを抱えつつ、いっぽうで税務署をゴマかすのに大忙しである。この点について船戸洪氏がきわめて的確な文章を書いている。
『……税務署員が彼らの店のストックを百万円に評価したら彼らは微笑《ヽヽ》する。千万円に評価したら苦笑《ヽヽ》する。一億円に評価したら微笑《ヽヽ》する。ややっこしい商人たちである(後略)』(筆者注・七年も前の文章ですから単位には大いに変化があるでしょうが、画商の神秘的な商売ぶりそのものは変らないと思います。微笑《ヽヽ》・苦笑《ヽヽ》・微笑《ヽヽ》のニュアンスの変化は読者自らその内容を想像してください)
日本の画商はパリとくらべるとお話にならないくらい貧しく、みみっちい。いくら大金持と御交際願ってハイ・ソサエティーに出入りしたところで、無名の画家にコレと目をつけて生活丸抱えで育ててやるというようなことはほとんどしているところがない。兜屋《かぶとや》が銀座の似顔絵描きの村上肥出夫を掘出して抱えたといっても、意図や壮とすべきも、その後のいきさつを見れば、カンワイラーがピカソと契約を結んだのとくらべたら、質そのものにおいてとてもとてもお話にならない(筆者注・村上氏がピカソでないという意味ではありません。それ以前のハナシです)。
日動画廊は日本最大の画商ということになっていて、そのストックは、大正から昭和、およそ二千点から三千点に上ろうかという。芝白金の倉庫にいってみると、これが古い木造の小さな教会であった。朝日新聞のベテラン美術記者であった竹田道太郎氏に聞いてみると、全部売れたとしたら十数億エンになろうかというストックである。
けれど、宝の倉を覗いてみたら、無数の額やカンバスは埃をかぶったまま乱雑に積みかさねられ、防火設備も何もなかった。気前がいいのだろうか、画そのものが価値がないのだろうか。
銀座の画廊にもどってみたら、ふらりと来あわせた栃木県の代議士に主人が画を選び、すすめてやっていた。
「……そうですね。風景あたりからはじめられるのがいいでしょうね。つぎが花ということになりますか。これは一度活けたら枯れるということがございません。それがすんだら静物、そう、果物あたりが無難でごわしょか。静物にも飽いたら、そろそろ人物で、バレリーナなどでやンすか」
「ああ、�赤い靴�ね」
「ええ。あれは映画ですけど……」
この画廊はフランスからローランサンやビュッフェやシャガールなども輸入するが、やがては日本の若い画家のものも輸出したいと考えているのだそうである。主人の長谷川仁氏は、スープをすすりおわってから、トンと匙《さじ》をおき、二十一世紀が目標ですといった。