七月十日の朝十時から文京公会堂で自民党の総裁選挙がおこなわれた。ねむい眼をこすりこすり見物にでかける。
文京公会堂は後楽園のすぐよこにある。池田派が後楽園の食堂に集って気勢をあげ、佐藤・藤山派が赤坂のプリンス・ホテルに集って気勢をあげているというので、さきにホテルヘいき、つぎに後楽園へいってから文京公会堂へとくりだした。後楽園でコカコーラやビールを飲んでエイ、エイ、オウをやっている池田派の受付氏に何名集ったかと聞いてみると、二百四十五名です、これだけでも過半数となりました、もう勝ったもおなじですヨと答えた。プリンス・ホテルの佐藤・藤山派は何名集ったかと聞いてみると、微妙な影響をあたえることですので数字は公表しませんと答えた。
文京公会堂はラジオ・テレビ、新聞、雑誌などの記者のほかに地方からでてきた自民党の代議員のおっさんやそのおばはん、弥次馬などがわらわらと集り、一階も二階もギュウギュウの満員ぶりであった。
報道関係者の席は一階と二階の前列にあり、私のもらった席は二階であった。私は近視だし、席は二階だし、この選挙をめぐっておよそ二十億エンから三十億エンの買収金がうごいたというので頭からたてる湯気もモウモウとしてすごいものであろう。きっとよく見えないにちがいない。というので、編集部で双眼鏡の、すごくきくのを用意してもらった。どこかの週刊誌から派遣されて安岡章太郎もルポにきていて、近くの席にすわっていた。私が双眼鏡で見まわしているのを見て、ちょっと貸してくれという。
「よう見えるやろ?」
「見える、見える。いいものを持ってきたなァ、お前は。用意がいいよ」
「競馬見物みたいなもんや」
「近代化したんだね」
やがて式がはじまる。まず国歌斉唱があってから、仮議長選出、議長選出、党情報告、総裁挨拶などあり、なんのもめごとも起らず、油缶からひきあげたばかりの歯車のようになめらかに進行。挨拶はどれもこれも大音声で調子をつけて、自主性だの、公明選挙だの、近代化だの、公約実行だの、物価高抑止だの、民生安定だの、党内の調和と秩序だのと、いや、もう、その正しく美しく立派なことは、いう言葉を知らなかった。『大キナ嘘ニハナニカ人ヲシテ真実ト信ジコマシメル何物カガアル』と叫んだのはヒトラーで、たしか『わが闘争』のなかにある言葉だと私が考える。また、政治家の演説とは一種不可解な神経がふれあってたてるリズミカルな騒音なんだなと考える。安岡章太郎は手っとり早く短い批判をくだす。挨拶のさいちゅうにたまりかねて彼はアッハッハと声にだして笑った。あとで彼はビールを飲みながら、気合だ、気合だ、政治は気合だといった。
�式次第�はまたたくまにすんで、いよいよ二十億エンの大祭典の本番となった。舞台のうえに板仕切りの記名ボックスがはこびだされ、衆議院議員、参議院議員、代議員など、アイウエオ順につぎつぎと呼びだされる。
白い紙をもらってボックスに入り、観客席に背を向けてなにやら書きつけると二つに折って箱にほうりこみ、ゆうゆうと舞台右手へ去る。記名ボックスに双眼鏡の焦点をあわせ、白い紙に焦点をあわせ、誰が誰の名を書きつけるか覗いてみようとしたが、どうにも見えなかった。
考え迷ってぐずつくのは一人もいない。みんなチョコチョコと書いてサッサと投票箱へほうりこんでゆく。その白い二つ折りの小さな紙一枚が二百万エン、三百万エン、五百万エン、千万エンという値を呼んだというのだから、地上最高の原稿料である。かりに二百万エンで私が買収されたとすると�池田勇人��佐藤栄作�、どちらを書いても、一字がじつに五十万円である。いちばん安い�藤山愛一郎�でも一字が四十万エンである。これがじつに�チョコチョコ�、�サッサ�でころがりこむのである。
私はそれを考え、自分の原稿料のことを考えあわせるという奇怪なことを頭のなかでやってしまい、つくづくアホらしく、かなしく、わびしくなり、家へ帰ってフトンをかぶって寝てしまいたくなった。むかし斎藤緑雨が『筆は一本、箸は二本、所詮《しよせん》かなわぬものと知るべし』といったけれども、この場合、なにをいうのも無駄であった。こういう原稿を書きつづっていてもアホらしさのあまりお脳がやわらかくとけだしそうで、ペンは重く、手は重く、機智も想像力も怒りも火を消した。下司《げす》っぽく、かつ乾いた文章をゆるしてください。いまや私はアワのなくなったビール、足の折れたアヒル、老婆の乳房みたいなものであります!……
開票。
二十億エンの小さな紙の山。
オットセイみたいな首をした連中が何人もあがってきて紙の山を仕分け、一枚一枚かぞえはじめた。双眼鏡の焦点を手にあわせてみたら、どの手もゆるく、正確にうごき、きわめて当然のことながら、ときどき指にツバをつけたりするあたり、紙幣をかぞえるのとまったくおなじうごきかたであった。美しいうごきであった。彼らの足はガニ股でよたよたと東西南北を知らずにうごくが、手は物に触れて目的にかなった、短くて無駄のない軌跡上をうごいた。
とつぜん一人の太った男が顔を赤くし、手を高くふりあげた。あわてて双眼鏡を男の胸のリボンに移す。�荒船清十郎�という講談の豪ケツみたいな名が見えた。池田派である。指を二本、つづいて四本、つづいて二本だしてみせた。それを二回やってから胸をなでおろしてみせ、バンザイした。池田勇人君二百四十二票。当選。カメラマンたちがドッとたちあがり、閃光《せんこう》がひらめき、ライトの急流がそそがれる。
「勝った」
「やっぱり」
「あたった」
「池田さんだ」
「勝った、勝った」
新総裁がだみ声で短い挨拶をすませると、佐藤・藤山両君が舞台|下手《しもて》に登場。新総裁と握手した。双眼鏡の輪のなかで佐藤君は池田君と握手し、なにかうなずいてから去っていった。おめでとうといったのかも知れない。藤山君はニコニコ笑って握手して去っていった。この人は聞くところによると趣味で政治をやっているとのことである。たしかにそう思えるフシがある。池田派が平河町のあるビルに集って気勢をあげた日、この人の事務所であるホテル・ニュージャパンヘいってみたら秘書がぼんやりとすわっていた。買収運動が激化しだした頃で、この人の白いハンカチも汚れはじめたのであろうと思われる時期であった。そこで私は実弾射撃か説得かにでかけたのであろうと思ったので、
「藤山さんはどこへいきました?」
と聞いてみたら、秘書がひくい声で、
「小唄の勉強ですよ」
といった。
拍手におくられて佐藤君と肩をならべて藤山君は舞台を静かにおりていった。たたかいすんで、ライトは消えた。銭は踊りをやめた。ハンカチを洗って白くしよう。三味線とルノアールが待っている。三味線の音を軒の雨音のように聞きながら�民族自主外交�のことをゆっくり考えてみよう。中国と大使級会談をすることをゆっくり考えてみよう。なにしろアメリカだってワルシャワでやってることなんだから、日本がやってもいいだろう。これからの外交は民族的自主性にたってやらなければいけません。アメリカだってやることなんだから……
ここ一カ月ほど、東京のあらゆる新聞社の印刷工場では文選工たちが毎日毎日おなじ活字ばかりをぬきだしていた。第一面の政治欄と政界ゴシップ欄のためであるけれど、ゴマンとある新聞社や通信社の文選工がみんなおなじ活字をアクビまじりでせかせかとぬきだしていた。
漢字では、�池�、�佐�、�藤�、�田�、�一�、�本�、�釣�、�忍�、�者�、�部�、�隊�、�派�、�閥�。カタカナでは、�ニッコリ�、�ギョロリ�、�ドウモドウモ�、�タップリ�、�ナニヤラ�、�サカン�などであった。彼らが植えこんだ文章には、毎日、�固める�、�追い込む�、�シメつける�などの言葉があらわれて、柔道、レスリング、おやもうオリンピックがはじまったのかしらと怪しまれた。
読者たちは新聞を読んで、毎日毎日、どの派閥が有望になり、どの派閥が劣勢になったかということを知らされた。�オットセイ派が票固めにいそがしい�、�ミミズク派はしめつけにかかった�というような文章でうかがえることなのであるけれど、どの新聞を読んでも、オットセイ派がなぜ有望なのか、ミミズク派がなぜあなどりがたくなったのか、ただそう書いてあるばかりで、なにひとつとして具体的に説明してないので、読者たちはさっぱり見当のつけようがなかった。
毎朝、表現が変るので、ははあン、昨夜《ゆうべ》なにかやったのだナと思うばかりで、なにをやったのかということについては、どうにも見当のつけようがないのである。それでいて新聞の文章はどの新聞を読んでもまったくおなじであり、そのようにあいまいモウロウとしたことを報道しながら、句や節は確信にみちているのである。表現のその自信たっぷりと内容のあいまいぶり、この矛盾、距離、背反は日を追うにしたがってはげしくなった。一つのことがこれほど大声で告げられながら、これほどなにもわからないというのは、ここ一カ月ほどはげしいことはなかった。
西側が東側に対して非難の言葉を放つとき、�言論の自由�が東側にないということを一つの大きな根拠にする。一党独裁の政治体制においては国家権力がしばしば過度の圧力を加えて報道統制がおこなわれるから社会主義国の国民には�知る自由�がないというのである。けれど、西方の民主主義国においては、�報道の自由�と�批評の自由�がみとめられているという。日本は西方の自由民主主義に属する国である。しかし、あなたはあなたの生活を支配することになる指導者が選ばれつつある事実について、柔道やレスリングの術語以上のなんの報道も入手しない以上、霧や、糊や、泥のなかで嘆息をつくだけである。
知らされない以上、なんの批評ができようか。批評ができない以上、なにを祖国のために真剣に考えられようか。わが祖国には権力の実態について、報道の自由もなく、したがって、真の批評の自由もないのである。アメリカにはまだときどき�報道の自由�と�批評の自由�が死にぎわの吐息を洩らす巨獣のけいれんのように洩れてくることがあるようだが、わが祖国には、とりわけこの一カ月、ないといいきってよい状態であった。バートランド・ラッセルが、かつて、�東には党の自由があるばかり、西には資本主義の自由があるばかりだ�といった言葉を私は思いださせられるだけであった。
わが国では甲羅が一メートルもある海ガメが沼津海岸にあがったことや、通産省の木ッ端役人が二万五千エンの汚職をしたということは徹底的に自由に報道されるが、政府首脳たちの派閥争いのために二十億、三十億の金が贈与税の対象になることもなくスイスイスイとうごくという実態については、なにひとつとして報道されないのである。報道されるのは柔道の術語だけなのである。したがって国民は猜疑的想像力を増すか、無関心になるか、寝テミタッテ起キテミタッテ同ジダヨウとつぶやくしかないのである。
わが国は思想と政党の自由を認める民主主義国で『自由民主党』だけが政党ではないのである。だから本来、この党でオットセイが党首になろうが、ミミズクが党首になろうが、私たちはソッポを向いていたっていっこうにかまわないという性質のものなのである。ところがこの党はわが万民の自由意志の投票によって、とにもかくにも最大多数の代議士を輩出している党なので、党内の事情がそのまま内閣、政府、国家の事情となることになっている。オットセイが党首になれば私たちはそのまま助平になり、ミミズクが党首になればそのまま私たちは夜になると目を光らしてコソコソとうごきまわらなければならなくなる。だから誰がこの党の党首になるかということについては、一身上、どうしても目を光らせ、よく眺め、指にツバして風の向きを知らなければいけないということになってくるのである。小説家も動員されて、海綿のように穴だらけのアタマをひねらなければいけなくなるのである。
小説家はここ一週間か十日ほど国会議事堂の記者クラブヘいったり、首相官邸の記者クラブヘいったり、消息通に会ったり、派閥の本拠へいったりした。東でオットセイが仲間を集めて気勢をあげるといえば東へいき、西でミミズクが鳴くといえば西へいき、日頃ほとんど見出しと外電欄だけしか読まない新聞も熱心に読んで、にわか仕込みの知識であたふたと歩きまわった。
そして、派閥闘争の現場を見ることができないからこれは�ずばり�と書けない、まるでぬれた石鹸をこねくりまわしているみたいなものだと不平をつぶやきつつ、夜おそく家へ帰ると、どたりとたおれて、気楽なイビキをかいて眠りこけるのでもあった。しばしば家のなかに水槽をつくって釣天狗をよろこばせている�釣堀�なるものへでかけてキンギョをひっかけたりして他愛なく顔を崩しもした。
自民党には池田、河野、川島、三木、佐藤、藤山、岸、福田、石井と、さまざまな派閥がある。総裁選挙となると、早くも池田は、河野、川島、三木、故大野などの派閥を派閥ごと腕のなかにかいこんだ。小説家の会った消息通氏の一人はこれを�トロール漁法�と呼んだ。反池田派の佐藤・藤山派はこの網の目からもれおちた子分どもを一人一人説得して釣りあげる方針にでたので、�一本釣り�と呼ぶことになった。また、トロール船でひっぱられた網のなかにも反池田派的心情の持主はいるので、これは網のなかにそのままのこしつつイザ投票というときには佐藤派に投票するよう説得をした。この先生方は池田派のなかにいて何食わぬ顔で飲んだり、食べたり、ドウモドウモといったりしながら、投票のときだけはチャッと佐藤派へ投票するという連中で、�忍者部隊�という。
「……けれど投票は無記名なのだからその場の出来心で誰の名でも書けるでしょう」
「そうです」
「忍者部隊のなかにも寝返りをうつ連中はいるでしょうね」
「そう、そう。ダブル・スパイという可能性のある連中はたくさんいます。佐藤と池田の両方から金をもらって計っているんです」
「陣笠連中ですか?」
「そう。陣笠でしょう」
「河野、川島、三木などという親分衆は池田派についています。けれど、看板は池田であっても、その裏ではたがいに利権や地位を争って排斥しあっているのではありませんか?」
「その通りです。みんな、要するに、オレが、オレがとひしめいて、便宜的に池田なり佐藤なりを支持しているにすぎません」
「すると、河野、川島、三木など、池田派の親分たちが、表面は池田を支持するような言動をしておきながらイザ投票の現場ではフイと出来心で佐藤、藤山へ票を投ずるというようなイタズラをするとは考えられませんか?」
「考えられますね。大いに考えられますね。無記名ですからね。なにをするかわかったもんじゃありませんよ。陣笠の小者は日ごろからビクついて挙動不審ですから目をつけられやすいが、親分衆はそうじゃないから、ボール・ペンのさきで、コチョコチョと、なにをやったってわかりませんよ」
「なるほど」
「親分衆となればどちらへころんだって利権がくるぐらい勢力が大きいですからね。おもしろいイタズラができますよ」
だいたい今度の選挙で、各派閥あわせて、総額二十億エンから三十億エンぐらいの金がうごいたであろうというのである。
「現金ですか?」
「現金だよ、もちろん。この世で現金ほどつよいものはない」
「鞄なんかにつめてもっていくんですか?」
「風呂敷だよ。数年前までは新聞紙でくるんでたようだけど、近頃じゃあ、ハトロン紙か風呂敷だな。ごくお粗末にくるんで持っていくんだ」
「親分本人がですか?」
「本人の場合もあり、秘書の場合もあり、女房の場合もあれば、妾の場合もあるね。派閥の中堅幹部が持っていくこともあるナ」
授受の現場はおきまり赤坂、築地、柳橋の�某料亭�であるそうだ。仲居たちを人払いして遠ざけてから、ひそかにコチョコチョとわたす。ところが親分はそういう料亭にカノジョをつくっているので、仲居は人払いしてもカノジョだけはよこへすえつけておきたがるというくせがある。そこで料亭に電話して人払いがあったという晩に妾のほうへ電話して、
「先生、どうしたの?」
と聞いてみると、彼女は、
「バカみたい。三百万もあんなオトコにやって頭をさげたりして」
などと答える。
それからまた、親分衆の女房どもが子分衆の女房どものところへでかけて抱きこみにかかったり、招待をしたりということもあって、親分、子分、男女入乱れての大合戦夏祭り、三十億エンのぬきつぬかれつの大祭り、というのがこの�総裁公選�の実態であるらしかった。現場を誰ひとりとして見たものはなく、証拠物件をつかんだものもないので、この幕裏を描く文章はつねに、�……という�とか、�……だそうだ�ということにつきるのである。そして、そのような口から耳への情報が、新聞のおごそかな第一面では、�オットセイ派はここ二、三日、はげしく票固めをした�というような、確固とした口調で語られる文章となるのである。
派閥、利権、地位、実弾《おかね》、抱きこみ、裏口工作、といったようなことは、あらゆる時代のあらゆる国でおこなわれてきたことであろう。けれど、政治には、つねに、たてまえと本音という背反がつきまとうものなのだという一般論で、いまの日本のこの混濁を人類の必然悪に私は帰したくないのである。その論法を使えば私はペストを恐れて逃げだしたエラスムスになり、その論の高さ、澄み、客観性、平静、悲しみの深さ、洞察力の高遠さをあるいは評価されるであろう。けれど私にはその論法がとれないのである。たとえ冷笑、罵倒するしかないとしても、それを通じて私はこの国につながっているからである。冷笑もせず、罵倒もせず、この首すじ太くいやらしきオットセイやミミズクどもを、ただ過ぎ去る地上の相の永遠なるものの一コマとしてだけ高遠な洞ヶ峠から責めていられるのだったら、どんなに文章は美しく、かつ、渓流の高潔無慈悲な澄みと冷たさを確保できることだろうか。
池田派も佐藤派も藤山派も、だみ声も白い胸のハンカチも、ついにおなじことである。論理としての政策の争いはなにもなかった。�高度成長政策のヒズミ�、�人間不信の政治�、�民族自主独立の外交�、トランペットは一度だけ高鳴って、消えてしまった。つづくはずがあるものか。吹く息がはじめからないのだから楽器の鳴るはずがないではないか。太初《はじめ》に金ありき。しかして人びと、走れり。それだけである。池田や佐藤は走らされたにすぎなかった。彼らはついに影絵人形にすぎない。金がなければ彼らは走れぬ。彼らに金をだした人だけがこの国の針路をきめるのである。この白昼強盗みたいに明々白々とした�秘密�を覗かないかぎり、いっさい論議は植字工たちのむだ働きにすぎない。
私はなにも知ることができなかった。なにもつかまえることができなかった。十日間の夜と昼を費消したが、いつもぬれた石鹸をおさえようとしてジタバタするだけで、そして、ついにつかまえることができなかった。あるのは確固としていながらあいまいきわまる�票�の流動の風聞にすぎず、�人間�はどこにもいなかった。�賢い為政者が四苦八苦して治めなければならない国は不幸である。愚かしい為政者でも治められてゆく国の民こそ幸福である�という古いアジアの知恵の言葉を私はふと思いだしたりする。してみると、なんの声もあげない私たちは幸福なのである。読者諸兄姉よ、私たちは幸福なのです。たいへん幸福なのです。はなはだ幸福なのです。すこぶる幸福なのです。これだけ税金をパクられ、汚職でパクられ、公約は実行されず、米、酒、バス、電話、汽車、学校、牛乳、フロ、散髪、大根、ことごとく値上りしても、なるものはなれ、過ぎるものは過ぎよ、地上の生は永遠に混濁している。生れてきたことがそもそもまちがいなのだと美しいあきらめの眼を持つ永遠の私たちは、ああ、じつにコーフクだ。たまらない。コーフクだ! コーフクだ!(筆者注・降伏《ヽヽ》の意なるか)