去年の年末頃のことである。私の友人の一人が品川駅付近をぶらぶら歩いていて、なにげなく一軒の喫茶店に入った。二階へあがり、窓ぎわにすわった。コーヒーを飲みつつ、スポーツ新聞を読んだり、ぼんやりと窓から外を眺めたりしていると、まわりの客たちの話し声が耳に入ってきた。聞くともなしに聞いているうちに友人はひどく興味をそそられた。
友人のまわりには五、六人の男がすわり、てんでんばらばらに話しあっていた。みんな顔見知りの常連か仲間らしい、ぞんざいな口のききかたをする。かなりの高声なので、いつもそこではそうしているらしい気配である。人相はふつうであるが、服装がまちまちでネクタイをしているのはオーバーを着ず、オーバーを着ているのはネタタイがなく、ジャンパー姿もあれば、くたびれた徳利首のセーターを着こんでいるのもある。
話はあちらへとんだりこちらへとんだりするが、競馬、競輪、競艇がよく話題にのぼる。ところが耳を澄ましていると、馬や自転車やボートにまじってときどき声が低くなる。そのたびに術語がチラリ、ホラリ、キラリと閃《ひらめ》く。
「……ガサがあって……」
「あいつはヨルモサだから……」
「……ケイちゃんは近頃……」
「いやあ苦労したぜ」
そのうちに聞えたのである。
「……あいつはいま目黒に泊ってるんだけどよッ」
決定的な一つの声は、
「この年末なのによく出してくれたもんだなあ」
とつぶやき、つづいて、
「……親心だってサ」
と答える声があって、そのふしぎな一座はみんな低い声で含み笑いをした。
友人は二、三日してから私に会い、その話をしたあとで、どうもスリのたまり場へ迷いこんだものらしいといった。そして、いっぺんいって見てきたらどうかとすすめる。手の放せない仕事に私はかかっていたので、まことにすまんがちょいちょいその喫茶店にたち寄って様子をさぐっておいてくれないかと、たのんだ。三回か四回彼はかよい、いよいよクサイぞと私に告げた。�バクダン抱えてたんだ�とか、�ボタン押してみんな寄せてきたんで一巻の終りになったんだ�とか、�ハコでヅカれたら右肩で押しの一手だ�などという話し声が耳に入ったという。だいたい正午すぎから三時頃までにやってきて、その時刻がすぎるとみんなどこかへ散ってゆく。
「符牒《ふちよう》はあうようやな」
「そうか」
「ガサは手入れや。ヨルモサは夜間専門の猛者《もさ》や。ケイチャンは時計、ハコは汽車、電車のこと、ヅカれるというのは感づかれるということや」
「よう知ってるやないか。あんたも鉤《かぎ》の手組とちがうか?」
「じつは三、四年前に警視庁のこの道三十年というベテラン刑事に会って手ほどきしてもろたことがあるのや」
「実践方法をか?」
「いや、理論編だけや」
これが冬のことであったので、夏の陣はどうであろうかと、まばらぶしょうヒゲを生やして、地図をたよりに品川界隈へとでかけてみた。
指定の時間にいってみると、なるほど喫茶店があって、二階があって、窓があり、窓ぎわには四、五人の遊び人らしい男たちがすわってかなりの高声で話をしていた。ほかに客はいない。薄暗い部屋のすみに鳥籠がぶらさがり、二羽のムクムクした鳥がけたたましく神経質に鳴きつづけていた。ジュースを持ってきた少女に聞いてみるとカケスだということであったが、どういうわけか、甲《か》ン高い声で、�ホーホケキョッ!�といって鳴きたてるのである。
そのうち男たちの一人が、
「タッ、とぼけやがンの。カケスのくせにウグイスの真似しやがる」
もう一人がとりなし顔で、
「あれは、おめえ、あれしか知らねえんだからよ」
なだめるように説明した。
だから私はウグイスの声を真似するカケスが東京にはいるのだということを学んだのである。大いなる神はなんと思いがけない笑いを配慮なさることであるか!……
男たちは友人の表現どおり、�口軽に、陽気に、一人一人てんでんばらばらに�、競馬、競輪、競艇のことなどを主に高声で話しあった。一人の男は、こないだの大爆発でノイローゼになった馬がいるにちげえねえから来週は場が荒れて楽しみだゼといった。そうかも知れねえ、馬ってのはそりゃ敏感なんだから、ともう一人の男がいった。なにしろあれだけの爆発だからよッ、爆発が破裂したんだからよッ、という男もあった。そのうち一人の若い男が二階へかけあがってきたかと思うと、�仕事、仕事�と叫んで、またかけおりていった。パチンコの玉をにぎって数のあてあいをしようといいだした男があって、みんながまちまちの数字をいうと、トガめるような声で、�素人衆ならしょうがねえが、おめえ、おれたちゃ……�とまでいって声を呑んだ。とつぜん、�大宮の松ッちゃんに会ったな�とだけいった声もあった。そのうち誰かが話の切れめに、�ゆくところがなくなったなあ�とつぶやくと、何人もが声をそろえて�ゆくところがなくなったなあ�といった。男たちの声がそろったのはこのときだけで、たしかに嘆息の気配がその声にはこもっていた。けれど男たちはすぐに忘れ、めいめいのポケットからガス・ライターをとりだして、あれやこれやと評定にふけりだした。どうもこの人たちの思考はノミの自由さと軽快さをもって跳躍するようであった。
警視庁の一つの部屋の入口に、
(挿絵省略)
こんな紙が貼ってある。
ポケットからポケットヘのオリンピックに出場しようとして、日本全国から選手が上京してくるということが考えられる。東京在住の選手でちょっと目さきのきいたのは刑事が大量出動することを考え、かつ日頃からハード・トレーニングにいそしんでいることでもあるから、無理を避けてドサまわりに出るであろう。けれど地方選手たちは上京してくるにちがいない。そこで警視庁は日頃はスリ係四十人という刑事を六月二十日から八十人に増員し、オリンピックのときには二百人にする予定である。本部の刑事だけでは数が足りないので所轄署から腕っこきを選抜する。チャンピオンに対抗するにはやはりチャンピオンでなければいけない。
三、四年前にこの摩擦運動について私に芸術的、技術的、心理学的、社会学的、風俗史学的に手ほどきをしてくれた刑事は斯学《しがく》の泰斗《たいと》であったが、聞いてみるとその後交通事故にあって殉職されたらしく、別の刑事さんがでてきて、いろいろと再教育をほどこしてくださった。それによると、近年は選手たちの数がグンと減り、昭和三十年頃までは一日に一人を記録するのは造作ないことであったが、いまでは十日に一人記録するのがやっとというありさまなのだそうだ。まことに御同慶に耐えない。昨年の被害届はわずかに六千五百件、届け出のないのがほぼ同数あると推定しても、合計やっと一万三千件にすぎない。種目は大半がナマ(現金)で時計やその他のブツ(現物)などに及ぶことはまずないといってよろしいというから、よろこばしいことである。
世のなかが太平になってきたので選手たちもアクセクしなくなったのと、チョロリとやって一年も一年半も刑務所にほうりこまれることを考えると、やっぱり割りがあわなすぎると思うのが当然の気持でしょうというのが刑事さんの解説である。だからいま活躍しているのは新人が少なくて、この道十年、二十年というプロ級が多いのだそうだ。
「……スリは孤独な芸術家ですよ。ほとんどが単独で行動してましてね、そこにまた誇りを感じていたりするんです。三人組、四人組でやるのもいますが、これは格がおちて、仲間からも軽く見られるようです」
故人となった泰斗が飲み屋の二階でそう教えてくださったことを思いだす。故人は戦前戦後をつうじて四十年近く、斯道一本にうちこんできた人であった。いわば地の塩であった。その結果、スリは金があってもなくても一日に一回はどうしても猟場を巡回して指をポケットと摩擦しないことには気持がおちつかないのとおなじで、故人も一日に一人スリをつかまえないことには家へ帰っても気持がわるくて気持がわるくてしようがないという心境に達したのだと洩らしておられた。狩の衝動という点で両者はおなじ存在なのだ。
�見ルコトハソノ物ニナルコトデアル�という芸魂がまさしくここにも生動している。作家。音楽家。画家。陶芸家。俳優。この観想の衝動がさらに洗練されて天上的なものにまで昇華されると、�眼�は物の核心をはるかにつらぬいて、ついに何物をも見ず、何物にもならず、何物からも自由になるのである。けれどそうなると刑事はスリを逃がしてばかりで、社会不安の種となるから、やむを得ず純粋衝動を挫《くじ》いて地上に踏みとどまらねばならぬ。すると向うから自動車がおなじ極限追求の純粋衝動に追いたてられてとんでくるから、そこでやっと存在は天上ヘタイヤのしたから一瞬に昇華する……というコースを故人は辿ったものであるらしい(人違いであることを祈りますが)。
スリは孤独な芸術家である。その芸魂は彼らの指さきの閃光に似た運動に濃縮して語られ、なんの説明もいらない。わずらわしい知性や、くどい感性などの影響は微塵《みじん》もうけぬ。彼らは一秒に一日を賭け、いっさいから自由である。税務署からも自由である。政治や哲学やアメリカや煙霧や女房からも自由である。だからこの芸道一途の精進ぶりを見て人びとは彼らのことを�タンボシ�(単独犯)と呼ぶのである。�孤《ひと》りなる星�と呼ぶのである。いささか通俗の臭気を帯びてはいても、名には事物の本質がこめられていると考えるべきである。カケスがウグイスの真似をするといって腹だたしげに叫ぶあたりにも�ホシ�の�ホシ�なるゆえんの純粋ぶりがうかがえようではないか。そして、二十世紀の生活を支配するのが�群集のなかの孤独�という感情であるとするならば、彼こそは孤独のなかの孤独者、しかも白熱的に充実した孤独者である。
このことを思うと、彼らの一人が輝かしき選良の身分も忘れて喫茶店の薄暗い二階の窓べりでズボンのしたから汚れたステテコを見せ、か細い毛脛《けずね》をポリポリと無心に掻くなどというはしたないことは、とてもしてもらいたくなかった。正視に耐えなかった。とうていそれはこの大衆社会の�人間疎外�状況を一笑し去るほどの実力者がとるべきお行儀であるとは思えなかった。
芸道一途がコレと目をつけるとそのときはもうスラレたのも同然なのだそうである。胸の内ポケットであろうが、お尻のポケットであろうが、ブリーフ・ケースであれ、風呂敷包みであれ、ハンド・バッグであれ、目をつけられたらまずさいごだと観念する必要がある。スレそうにないジン(人間)は、はじめからガンヅケしない。それは鍛錬と本能と経験が彼に教えるのである。ではスレそうにないジンになるには、こちらにどのような心構えが必要かというと、なにやら人格からにじみでてくるサムシングであるという。
つまり、スラレまいスラレまいとする硬化もいけないし、ああまた米の値が上がった、ああまた税務署だなどと放心しきっていてもいけない。ゆうゆうとしていながらスキがなく、福々しそうでありながら一抹秋霜のきびしさがあり、治にいて乱を忘れず、乱にいて治を忘れず、ノミを愛しながらD・D・Tも尊敬する……というぐあいであってほしい。つまり、先様が何重もの障害を突破して至難の芸を洗練するのであるから、どうしたってこちらの芸も至難な境地へ追いつめられてゆくことになるのである。
「フンドシのなかへ金をかくしたら大丈夫ですか?」
「いいでしょう。けれど、終電車で酔って死んで(寝て)しまったらもういけませんね」
「バッグやブリーフ・ケースなんかより信玄袋のほうがいいのじゃありませんか?」
「わるくないですが、アテを使う(カミソリを使う)のにかかるとあぶないですな」
ああ。
生きるのは神経が疲れる。
職業、身元、経歴など、一切不明の男たち五、六名は、なおも喫茶店の窓ぎわにたむろし、どこか子供っぽい声をあげて雑談をつづけた。彼らは昼さがりなのにだらだらとコーヒーを飲んだり、おしゃべりをしたり、パチンコの玉のあてあいをしたりして、時ハ金ナリなどというけちくさい金言を無視した。ごろっちゃらとして浮世にぶしょうなウッチャリを食らわしつつ、自由が丘に××とかいう新しい店ができたなあとか、あそこにはいってみたが二階にスケ(女)がいるからいけないよなどと、思いつくままにしゃべっていた。
スポーツ新聞をおいてたちあがると、なにげなしにふりかえった眼に、壁の板額の文字が映った。いままで気がつかなかったが男たちはさきほどからその板額のしたで話にふけっているのであった。なにか文字が彫りつけてあるので、何だろうと思って近視の眼を近づけてみたら、ああ、またしても大いなる神の配慮があった。これは事実なのだ。私の創作ではないのだ。私の想像力はとてもそんなに非凡で高雅なものではないのである。
板に彫りつけてあるのは、じつに、島崎藤村の『千曲川旅情の歌』であった。さよう。�小諸《こもろ》なる古城のほとり雲白く……�というアレである。それがそのまま変体仮名で彫りつけてあるのだ。神は身元不詳の男たちの頭上でさきほどから口ずさみたもうていたのであった。
�小諸なる古城のほとり
雲白く|遊子かなしむ《ヽヽヽヽヽヽ》
…………