さて。
こうしてしどろもどろの細道でノタうちまわって乱酔のうちに『ずばり東京』の連載が終ると、『週刊朝日』は私を続いて労働させることを思いたち、かつ、私自身の要望やそそのかしもあって、ヴェトナムヘ派遣することになった。一九六四年(昭和三九年)の秋のことである。翌年の六五年の三月に帰国したが、Dゾーンのジャングル戦にオブザーヴァーとしてついていき、ヴェトコンに完全包囲されて乱射され、二〇〇人中一七人が生きのこり、そのうちの一人だったという奇蹟じみた生還であった。カメラマンの秋元啓一と二人でそういう綱渡りを演じたわけだが、これを機会に彼とはその後もしばしば諸国の混沌と流血の現場をハイエナのように覗いて歩いた。ナイジェリアのビアフラ戦争、アラブ×イスラエル紛争、パリの五月革命などである。ヴェトナムにはその後も六八年、七三年と、これは秋元ぬきだけれど二度行き、ほぼ十年間にわたって三度、それぞれ異なる局面を観察することとなった。そして次第に私は流血の闘争の現場を報道することにも観察することにもくたびれはじめ、一転して川岸にたって水の音を聞くことや魚の閃《ひらめ》きを眺めることに没頭するようになった。釣竿を片手にアラスカの荒野、アイスランドの川、バイエルンの湖、アマゾンのジャングル、南北両アメリカ縦断などを試みた。
ノン・フィクションといっても、目撃したり感知したりしたすべてのイメージを言葉におきかえることはできないのだから、それはイメージや言葉の選択行為であるという一点、根本的な一点で、フィクションとまったく異なるところがない。事実を描くことで真実に迫るという点、文体が何よりも要求されるという点、構成を苦心してドラマの効果を工夫するという点、すべての形相においてそれはフィクションの一つにほかならないといいきってもさほどの誇張にはなるまいと思われる。ノン・フィクション・ノヴェルというものができるのも当然のことである。ラジオ、テレビ、新聞、週刊誌、月刊誌は毎週、毎月、毎年、おびただしい情報を�真相�として報道することにふけっているが、その反面、人びとはいよいよ�実物�を触知したい、感知したいという焦躁にとらわれていくように思われる。うさんくさい、まがいものの�事実�の氾濫にうんざりしているのである。それぐらいファクト・ファインディング(真相探求)というものは困難で厄介でしんどいことなのであるが、そうだとわきまえてとことんの深部から覚悟と知覚を抱いて事にあたる書き手はほとんど一人もいないといってよろしい。�私ハ見タノダ�とか、�コレガ事実ナノダ�という信仰くらい騒々しくてうつろな迷妄は類がない。
しかし、ノン・フィクションはフィクションの一種であるといっても、書き手が目撃しなかった事物を目撃したように書くことは許されていないはずである(現実にはおびただしく安易にしょっちゅう侵犯されているルールであるが……)。そこでおっかなびっくり�私ハ見タ�の確信をたしかめたしかめ見た物についてペンを進めていくのだが、フィクションの発想と異なる細道をたどらなければならないので、この道ばかりをたどっていくと、やがて、いつとはなく、ポイント・オブ・ノー・リターンに迷いこみ、フィクションを書くことができなくなるか、または、きわめてむつかしくなってくる。つまり�事実�もまた他のいろいろのこととおなじく二つの刃を持つので、刺す人が剌されるという情念の倒錯が書き手を噛みはじめ、想像力を扼殺しにかかる。
諸国放浪のうちに私はいつとなく、誰に教えられるともなく、�事実�にも二種あって、フィクションにしたほうが本質を伝えられると感じられるものと、ノン・フィクションにしたほうがいいと感じられるものとがあると知覚するようになり、薄暗い、たよりない�心�という記憶銀行にいくつものエピソードやイメージや言葉を貯蓄するようになったが、川から書斎にもどってきて、深夜の灯のしたで、それらをひとつひとつ、宝石か、ゴロタ石かと点検にかかることから�創作�の仕事がはじまる。じつにしばしばけじめがつかなくなって茫然となり、ついにはフトンをかぶってフテ寝をきめこんでしまう夜々ではあるけれど……。
以上。
ごく短く。
いささか乱暴に。
昭和五十七年七月某夜 茅ヶ崎にて