——未解決のパラドックス
箱を隔壁によって二つの部分に分けておき、片方に気体を入れ、片方を真空にしておく。この隔壁を突然とり除くと、気体はたちまち箱全体に一様に拡がってしまう。いったん拡がってしまうと、気体がふたたび自然にもとの片半分の中にもどり、あとの半分が真空になる、ということは絶対に起こらない。つまりもとのプロセスのちょうど逆むきのプロセスは起こらないのである。このような、逆むきのプロセスが決して起こらないような現象を不可逆現象という。
摩擦によって熱が発生するという現象は、たとえばわれわれが物体を動かすために使った力学的なエネルギーが、熱の形になって逃げてゆくという現象であるが、これも不可逆現象の一つである。いったん熱の形になったエネルギーがまたもとの力学的なエネルギーにもどって、物体が自然に動き出すということは起こらないのである。
しかし一方、物質の構成粒子の運動を支配する法則は、時間のむきを逆にしても変わらない。したがってある現象が起こったならば、それと逆むきの現象も必ず起こることができる。この観点からすれば、不可逆現象というものは存在しないはずである。これは明らかにパラドックスである。
このパラドックスをどう解くかは、昔から沢山の研究者が懸命にとりくんできた根本的な問題であるが、現在でも完全に解決されてはいない。それにもかかわらず、理論はどんどん発達して、多くの不可逆現象を記述することができるようになった。雑多な不可逆現象を取り扱うのに欠かせないボルツマンの方程式とよばれる方程式や、非常に広い範囲の不可逆現象を統一的に記述することのできる不可逆現象の熱力学などはその代表的な例である。
このように、最も基礎的な点がはっきりしないまま理論ができあがって、けっこう役に立っていることはしばしばあることである。根本的な問題の研究ももちろん大切であるが、一方そればかりにこだわっていても、理論は前進しないのである。