——精密ばかりがよくはない!
ボイルの法則、といえば大ていの人はあああれか、とすぐ思い出すか、内容は思い出さないまでも、名前だけは覚えているであろう。温度が一定ならば気体の体積は圧力に反比例する、という法則である。この法則は厳密にはいわゆる理想気体とよばれる、現実には存在しない理想化された気体に対してしか成り立たない。理想気体というのは、互いに力を及ぼし合わない点状の原子からなる気体のことである。実在の気体を造っている原子は点ではなくて必ず大きさをもち、また弱いながら互いに力を及ぼし合っているから、その体積と圧力の関係はボイルの法則からずれている。しかしそのずれがわずかなので、実用上はこの法則が成り立つと考えてさし支えないことが多い。
そればかりでなく、このずれは気体が十分稀薄になった極限では例外なくゼロになるから、ボイルの法則は気体の種類によらない非常に広い一般性をもつ。このために、ボイルの法則は物質の熱的性質を記述する熱力学の理論体系を構築するさいに、基本的に重要な役割を演じるのである。これに比べると、実在の気体にあてはまる、より精密ではあるが気体によってちがう個別的な法則は、はるかに低い重要性しかもたないといってよい。
ボイルの時代には測定が不精密で、前記のわずかなずれが観測されなかったのだが、それだからこそかえってボイルの法則が発見されたのだともいえる。もし測定がはじめから非常に精密に行われていたら、この重要な法則の発見が数年または十数年おくれていたかもしれない。
このような状況は現在でもよく起こることである。実験技術があまり進歩しないうちに観測された広い範囲の物質が共有する性質をよく記述する理論の方が、進んだ実験技術によって見出された個々の物質のこまかいふるまいを説明する理論よりもはるかに現象の本質をえぐり出していることが多い。実験にしても理論にしても、精密なことが粗いことより無条件によいことだとは限らないのである。