——理論の宿命
学生の頃、ラジオ技術をマスターして実験物理をやろうと志したことがあったが、あっけなく挫折してしまった。
ベテランの先輩が、こういう回路を組めば、ここに電圧をかけるとここにこれだけ電流が流れ、したがってこういう働きをその回路はするはずだ、と考えながら設計しているのを見よう見まねでやってみた。しかし、私が考えると、一ヵ所にかけた電圧が回路の至るところにくまなく影響を及ぼし、それが最初加えた電圧にはねかえってきて、収拾がつかなくなるのが常だったのである。
くまなくゆきわたる影響を全部もれなく考えに入れようとするからいけないので、わずかな影響は切り捨て、主要なものだけをとり出して考えなければならないのである。
こまかい影響まで全部考慮に入れた電気回路の方程式をたてることはやさしいのだが、それをちゃんと解くのは極めて難しい。ベテランの頭はそういう難しい問題を、本質的でない部分を手ぎわよく切り捨てることによって簡単に解いてしまうことができるらしかったが、私にはそれがどうしてもできなかったのだ。
そんなわけでラジオ技術はあきらめて理論に転向したのだが、実は理論でもやはりうまく切り捨てる手腕がモノをいうのである。理由はまったく同じで、方程式をたてるのは比較的やさしいが、それを厳密に解くのは難しいからである。しかし場合によっては、うまく切り捨てたつもりでもおそろしく誤った結果が出ることがあるから、できるだけ切り捨ての少ない理論を作ることもまた重要である。それが結局私の主な仕事になった。
それにしても、まったく切り捨てのない理論を作ることはほとんど不可能に近い。小さいと思って切り捨てた部分が反逆する可能性は常に残っているのである。これは理論というものの宿命であり、理論を使うときには常に謙虚でなければならないゆえんであろう。
何れにせよ、切り捨てごめんは困るのである。