——無心と執着
ななめ上から階段を見下ろしたところだと思って眺めているうちに、突然ななめ下の裏側から階段を見上げた図に変わってオヤッと思う種類の絵が、パズルの本などによく描かれている。
同じ長さの線が、矢印のつけ方によって長く見えたり短く見えたりすることを示す絵もおなじみである。これが錯覚によるものであるのに対して、階段の絵が二様に見えるのはもちろん両方とも真実であって、錯覚ではない。しかし、これは階段を見下ろした絵だとはじめに思いこんで、それに執着していると、いつまで見つめていても裏から見た絵にそれが変わることはないであろう。無心に見てはじめて二通りに見ることができるのである。
同じものを二通りあるいはそれ以上に見ることができるという場合は、数学や物理でもしばしば出てくる。たとえば九個の数を横三列、縦三列のゴバンの目のように並べたものを三次元の行列というが、これは三つの数を縦に並べてできる柱を横に三本並べたものだと思うこともできるし、また三つの数を横に並べてできる梁を縦に三本並べたものだと思い直すこともできる。
そんなことはどっちだっていいではないかといわれそうだが、実はこのような思い直しをすることによって、一次方程式に関する基本的な定理を簡単に証明することができるのである。
このほかにも、同じことをいく通りかに「思い直す」ことによって、重要な定理が証明できたり、一歩進んだ理論的視野が開ける例は、枚挙にいとまがない。物理でも、一つの現象を今までと別の角度から眺め直すことによって、現象間のかくれた関連が見出され、思いもよらぬ新しい展望が開けることが多い。
物ごとを無心に眺めて、いろいろな思い直し方を発見する能力が、物理や数学の研究では大きくモノを言う。それと同時に、普通なら見すごしてしまう一見どうでもいいようなちがいに着目して、それの意味や使い方をねばり強く考える執着心も、また研究には不可欠である。無心と執着。この相反する資質が研究者には要求されるのである。