——皮ばかりのミカン
われわれが住んでいる世界は、その中のすべてのものが高さと幅と奥行きをもついわゆる三次元の空間である。平面の中に住んでいる人間がいるとしたら、その人間にとってはすべての物体は幅と奥行きしかないであろう。同様に、直線は一次元の空間であって、その中ではすべてのものは奥行きしかもたない。
数学者や物理学者は三次元よりもっと次元数の多い空間を自由に考えて、いろんな理論を作る。そのような高次元の空間を具体的に頭に描くことは難しいが、三次元空間からの類推と論理とにたよって抽象的に構成するのである。空間の次元数が多くなっても、大ていの物事は三次元空間におけるのと大して変わらないが、非常に奇妙なことも起こってくる。
半径五センチで皮の厚さが五ミリのミカンの皮の体積はミカン全体の体積の約二割七分である。これに相当する幅五ミリの皮(へり)をもつ半径五センチの二次元のミカンでは、皮の面積の全体の面積に対する割合は約一割九分である。一次元のミカンではこれが一割ちょうどとなる。
これからわかるように、次元数が多くなるほど皮の部分の占める比率が大きくなってゆき、無限次元の空間では遂に中身が皮に比べて無限に小さくなってしまうのである。無限次元の世界に人間が住んでいたとすれば、それは皮ばかりの無気味な人間なのである。
このような怪奇な空間を考えることは机上の遊戯、ないしは単なる仮構にすぎないと思われるかもしれない。しかし相対性理論が教えるところによると、われわれの住んでいる世界自体がすでに、空間の広がりのほかに時間の広がりをもった四次元の空間であると考えなければならないのである。
五次元以上の空間は、そのような直接的な実在ではないが、物理の理論を構成するには、多次元の空間を考えることが、ほとんど必然的に要求されるのであって、ある意味では実在ともいえるのである。