——幽霊峠を登るなかれ
光のスペクトル、すなわちどんな波長の光がどれだけの割合でその中に混っているかを調べるのには、いろんな手段があるが、回折格子はその一つである。
これは、金属またはガラスの板に、一ミリの間に何百本というごくこまかい溝を引いたもので、回折現象によって、違った波長の光が違った方向に反射されるために、スペクトルが観測されるのである。
この溝を引く作業は非常に困難な仕事で、熟練した技術者がやっても完全に等間隔に線を引くことはむずかしく、どうしても狂いが生じる。そのために、実際には存在しない波長の光が、あたかも実在するかのように観測されてしまうことがある。これをゴースト、すなわち幽霊とよんでいる。
これは実験物理の話だが、理論物理でも似たようなことがときどき起こる。計算したい物理量がある種の関数の積分で表されるときによく用いられる鞍点法という方法がある。複素平面の上でのその関数の値の分布がちょうど馬の鞍あるいは峠のような形になるところをさがし、そのうちのいちばん険しい峠を上り下りする路に沿って積分すると、計算が非常に簡単になることを利用する方法である。
鞍点法は非常に有力な方法で、しばしば利用されるが、たとえば温度をいろいろ変えて同じ物理量を計算したい場合に、うまく峠がみつかったからと思って安心して、あとは機械的にただ温度を変えていると、いつの間にか使っている峠よりもっと険しい峠が全然別のところに出現しているのに気がつかないで計算を続けていたりすることがある。つまり相手にするべきでない幽霊をいつの間にか相手にしているわけで、もちろん間違った結果しか得られない。
行きつかむ峠は遠く途中にはお化けの出るかもしれぬ森あり
すぐれた数理物理学者であられる東北大学の桂重俊博士の作である。御用心、御用心。