——術語のつけ方いろいろ
数学のある分野の本を読むと、「星」だの、「流れ」だの、「木」だの、「先祖」だのという、詩にでも出て来そうな言葉が沢山出てくる。といっても、数学者が別に特にロマンティックだというわけではない。これらは術語であって、それによって表されるものは現実の流れや星などとは似ても似つかぬ抽象的な概念であり、ただ連想によってこういう名前がつけられたにすぎないのである。
物理の本にも、「涌き口」とか、「流線」とか、「仕事」とか、「能率」とかいう、平常よく使われる、ただしあまりロマンティックではない術語が沢山現れる。これらも抽象化され、数式によって明確に定義された概念であって、日常使われるときの意味とはかけはなれている場合が多い。
たとえば「涌き口」は流体力学では文字通り流体の涌き出している口のことであるが、電磁気学では正の点電荷を意味する。また「仕事」は物体に力を加えて移動させたとき、力の大きさと、力の方向に沿って測った移動量との積のことであって、我々が机の上でものを書く仕事や、仕事と家庭の両立などというときの仕事とはまったくちがうものである。しかし、数学の場合に比べると、それらの表す概念は具体的なものとより密接に結びついているといえよう。
ところが同じ物理学でも、数学が駆使される難しい理論になると、再び「泡」だの、「父母」だの、「牡蠣《かき》」だの、「娘」だの、「祖先」だの、はては「共犯者」だのという言葉が登場し、しかもそれらの指す概念はもとの実物とはまったくちがうアブストラクトなものになる。
現実からかけはなれたものほど感覚的な刺激の強い名前がつけられているのは面白いことである。極度に抽象的なものの方が、実体との結びつきにしばられずに自由に命名できる、ということもあろうが、乾いた抽象の世界に遊ぶ者が本能的にナマナマしい人間味を求めるためかもしれない。