——人間の人間的使用
特急列車に乗ると、窓があかない上に停車時間が短いので、駅弁がなかなか買えず、旅が味気なくなってしまった。
車内販売の弁当はあまりに事務的で風情がないから、つい食堂車へ行くことになる。この方が、車窓を流れる風景のかもし出す旅情と相まって、可憐なウエートレスたちをどんな運命が待っているのだろうなどとちょっぴり感傷的な気分にもひたれようというものだ。
しかし彼女たちの労働のはげしさは、そんな感傷など吹きとばすかのようだ。ゆれ動く車内でこぼれやすい食べ物を運ぶだけでも重労働と思われるのに、客の注文したものを調理室にとりつぎ、どのテーブルからの注文が何だったかを記憶しておかなければならない。この上さらに客につねに笑顔で接することを要求するのは無理だという気がする。注文の取りつぎと記憶ぐらいは簡単に機械化できるはずなのだが、と私などはいつも考えてしまうのである。
客からの注文をきいてウエートレスがテーブルの上のボタンを押せば調理室の表示板に何番のテーブルの注文は何、ということを示すランプがつき、料理ができたらウエートレスがそれを見て客席に運ぶと同時にボタンを押してランプを消すというようにしておけばよい。こうすれば注文を記憶する労力が省け、記憶ちがいによるトラブルもなくなって、ウエートレスたちは本来のサービスに力をそそぐことができるであろう。
機械化、合理化というと何でも人間性の無視につながると考えがちである。だが、これなどはウエートレスを記憶する機械として使うのをやめて、よりヒューマンなサービスが無理なくできるようにするのだから、ひかえ目にいっても旅というもののもつ人間的な味わいを少しでも濃くするよすがとなり、大げさにいうならばサイバネティックスの創始者ウィーナーのいうところの「人間の人間的使用」にかなう一つの例であると思うのだが、どんなものであろうか。