——大局と部分のかねあい
物理の論文の内容を理解するためには、いうまでもなく、その中に出て来る数式の計算や、相続く叙述の間のこまかい論理関係を正確にたどることが必要である。しかしそれと同時に、個々の計算やこまかい論理のはこびが、全体の話の筋の中でどういう役割をしているのか、ということにつねに注意し、こういうことを言うためにこういう計算をしているのだな、ということを理解しながら進まなければならない。さらに、ある程度進んだならば、全体を見通して、要するにどういう話なのかを把握することも必要である。つまり、木を見ることと森を見ることの両方が必要である。
若い人たちといっしょに論文を読みながら議論していると、木を見る能力と森を見る能力とのバランスがちょうどよくとれている人はなかなかいないものだということに気がつく。もちろん両方の能力の間には強い関連があるから、片方だけがあって他方がゼロということはあり得ない。しかしたいていは、どちらかといえば木を見るのが得意であったり、その逆であったり、とかく片寄りがちである。
木を見ることの得意な人の書いたものは、部分々々は正確なのだが、枝葉が多すぎたり大局的なつながりがはっきりしなくて、結局何を言いたいのかよくわからないことが多い。森を見ることの得意な人の書いたものは、全体としては要領を得てもっともらしいが、細かい点が不正確だったりいい加減だったりして、結局信頼性に欠けることが多い。一人々々の個性ができるだけ発揮されるように留意しながら、これらの欠点を直すのはなかなか苦心のいるものである。
こういう事情は物理に限ったことではないであろう。くどくどと話は微に入り細をうがつが、一体何がいいたいのかさっぱりわからない口説《くぜつ》。大上段にふりかぶってお説ごもっともだが、しかし何となくマユにツバをつけたくなるお説教。どちらにも苦労させられることである。