——ノートなしの講義
昔、物理学科の学生だった頃、数学科の講義を二つ三つひやかしたことがある。
ひやかした、などというと叱られそうだが、はじめはマジメにしまいまで聴いて、ちゃんと身につけるつもりであった。ところが、物理屋の怠けグセがわざわいし、あまりにも論理の連鎖だけが延々と続くので(あるいは不明にしてそのようにしか思えなかったので)、途中でへたばってしまったわけなのである。
そんなことで、講義の中身の方はあらかた忘れてしまい、どの先生の口からも、ほとんどノートを見ることなしに、よどみなくそのとめどもない論理の連鎖が流れだし、黒板にもいささかのとどこおりもなく次々と式が書かれてゆく光景だけが、あざやかに思い出される。
幾何学序論を担当しておられたH博士の講義ぶりは、中でも水ぎわだっていた。博士は名刺ぐらいの大きさの小さなメモを一枚だけ持って教室に現れ、それをときどきチラリチラリと見るだけで、流れるように話を進められる。一片の紙切れから、一糸の乱れもない整然たる講義がとうとうとあふれ出してくる光景に、私はノートを取るのを忘れて見入るばかりであった。
私などは、同じ講義を三、四回繰り返しても、なかなか式が覚えられず、ノートを手から放せない有様である。H先生もほかの先生方も当時新進気鋭の助教授であられ、今の私よりもはるかに若かったはずだが、と考えると、一層これらの方々の名講義が人間わざではなかったように思われてくる。
物理学では論理の飛躍がしょっちゅう現れ、いわゆる物理的なものの考え方をしなければならないので、数学とは事情が違うのだと時々つぶやいてはみる。が、物理にもO教授などのように、ほとんどノートを見ずに見事な講義をされる方もおられるのだから、どうやらこれも負けおしみにすぎないらしい。
O教授のマネは逆立ちしてもできそうもないが、やはり一歩でも神わざに向かって近づきたいものだ、と思うのである。