——「科学度」は知識では測れない
伊藤整がどこかに、寒い冬の日に東京である南国出身の作家に会ったとき、北国育ちの自分が厚いシャツを重ね着しているのに、その作家は夏と同じ薄い下着一枚だけの姿でいるのに驚いた、という思い出を書いていた。
ちょっと考えると、北国の人間の方が寒さに馴れているから寒くても薄着で耐えられそうであり、私なども冬に本州へ行くと、北海道の方なら寒くないでしょうね、とよく言われる。しかし、事実は逆で、本州の人たちはよくこの寒さをストーブなしで我慢できるものだとこちらが感心してしまうのである。これは伊藤氏が彼のその思い出によせて推定しているように、南国育ちの人は寒さのおそろしさを知らないが故に、かえって寒さに無頓着でいられるということなのだろう、と思っていた。
ところが大分前のことだが、私が購読しているある新聞の「あなたの科学度」という欄に、冬が近づいて人々がオーバーを着始める時期の気温は北国と南国のどちらが高いか、という質問に対する答えとして、北国の方が南国よりも低く、たとえば二割の人がオーバーを着るのは北海道では四度、仙台で六度、太平洋沿岸で八度、また八割が着るようになるのは北海道ではマイナス二度、仙台で二度、太平洋沿岸で四度以下になるころだ、という記事が出ていた。この数字は右の推定と矛盾するので、ハタと困ったのだが、今のところ私はこの矛盾を解けないままでいる。
それはさておき、たとえばこの矛盾を合理的に説明する能力が大きいほど、あるいは説明しようとする意欲が強いほど、その人の「科学度」が強い、ということは多分言えるかもしれないが、このような数字を知っている人が、知らない人よりも科学度が高い、というのはうなずけない。
単なる知識はどこまでも知識にすぎないのであって、それで科学度を測るのは危険だと思われる。「あなたの科学度」欄を読むたびに、いつもこの危惧が頭をかすめたのは、私の思いすごしにすぎなかったのだろうか。