——文明とは紙の浪費か?
紙の浪費時代である。書斎でも研究室でも大きなクズかごが二日もたつといっぱいになって、始末しなければならなくなる。手紙や論文別刷りの封筒などだけでもかなりの量だが、これらは中身があるいは楽しかったり、あるいは役に立つからまだよいとして、ダイレクト・メイルの大部分は封も切らずにクズかごに直行してしまう。
会議の席でくばられた資料類を几帳面に持って帰って机の上に置いておくと、一週間くらいで山積みになり、その大部分はこれまた整理の対象となる。買い物の包み紙は昔は一枚一枚ていねいに折りたたんで保存したものだが、今ではほどいたとたんに紙クズあつかいになるのが一般であろう。
などなど。石油危機の教訓も、どうやらのどもとすぎれば、ということに終わったようである。
コンピューターを使って仕事をするさいに、次から次へと吐き出されてくる数字を満載した紙の洪水は、なかでも印象的である。ふた昔くらい前ならば最上級の大学ノートに使われたような上質の紙が、またたく間にうずたかく積まれる。印刷されて出てきたデータを全部フルに利用するのならまだしも、普通は使うのはごく一部分で、実際に論文の中の図や表となって発表され、人の眼にふれるパーセンテージとなると、文字通り九牛の一毛にすぎないことが多い。まことに文明とは紙の浪費のことか、と感嘆させられるのである。
しかしながら、紙の消費量はたしかに文明のバロメーターであるとしても、それがすなわち人間の生活の高さの指標なのであろうか。コンピューターの発達によって、今までにとうてい手が届かなかった計算が可能になり、思いもおよばなかった面白い研究ができるようになったのは、研究者としてはありがたいことである。しかし一方では、社会全体として見たとき果たしてこのような紙の大量消費がペイしているのだろうか、という疑念がコンピューターとつきあっていると時折湧いてくるのである。