——地図に人間的味わいを!
寺田寅彦の随筆の名品の一つ「地図を眺めて」の中に、地図の値打ちを知らない人にとっては一枚の地図は包み紙くらいにしか値せず、その読み方を知らない人には作りだす図柄は梵語を知らない人にとってのサンスクリット文のようにわけのわからない模様にしかすぎない。しかし、地図の読み方に習熟した人にとっては、一枚の地図は無限の知識の宝庫であり、五万分の一の地図一枚がコーヒー一杯の代価で買えるのはまことに安いものだ、という意味のくだりがある。現在でも地図一枚の値段はまさにコーヒー一杯の値段に等しく、寅彦の言葉は今もそのまま通用するのである。
これに対して、もう一つ私が感銘をうけた、等高線のちょっとした曲がり具合も測量者の汗の結晶なのだ、というくだりは現代にはあてはまらなくなってしまった。最近では地図はすべて空中写真を用いて測量され、等高線も機械で自動的に描かれるようになって、人跡未踏の深山を粒々辛苦、一歩一歩歩きながら地図を描いていったいわゆる測板測量は過去のものとなったからである。
これによって、莫大な時間とエネルギーが節約されると同時に、地図が桁ちがいに精確になったのは、もちろん大変結構なことである。しかし、一面このために一枚一枚の地図のもつ芸術品的な深い味わいと美しさがなくなったのは残念なことである。
測量法の進歩ばかりでなく、製図法もまた近代化され多分に機械化されて、一本一本の線を烏口で克明に描く必要がなくなったこともまた、地図をメカニカルな味気ないものにする大きな要因になっている。しかしながら、同じく近代化の波にさらされているはずのイギリスやスイスなどのヨーロッパ諸国の地図が、昔に変わらず深い味わいを保っているのをみても、技術の進歩が必ず地図の美しさの低下をもたらすとは限らないことがわかる。
せっかく機械化によって節約された人手を、地図の人間的な味わいを回復するために人間的に使っていただきたい、というのが私の願いである。