——電車の中で読めるもの
理論をおやりなら、うちで仕事ができるからいいですね、といわれるたびに、十年ほど前に半年間、基礎物理学研究所の客員研究員として、宝塚の近くから京都大学に通勤していた時のことを思い出す。
往復四時間以上もかかるのを逆に利用して、ふだん読めないでいる専門書をじっくり読んでやろう、というのがはじめの目算であったが、いざ読みかけてみてもどうしても続かず、このもくろみは見事失敗に終わった。電車の中には、結局新聞か週刊誌を読むくらいの雰囲気しかなかったからである。
私は怠けもののせいか、ここは学問をするところだぞ、という雰囲気のある研究室に居ないと仕事ができない。それで、学校に行けばいろいろなことで妨げられることがわかっていながら、毎日ハンを押したように出かけているのである。
イタリーのトリエステにある国際理論物理学センターで、ベトナム、タイ、インドネシアから来ている気鋭の物理学者たちと雑談をしていて、どうも東南アジアの大学では、研究しなくても一生地位が保障されるため、仕事をまったくしない連中が多くて困る。日本ではどうか、ときかれたことがある。
日本のシステムもまったく同じで、したがってわれわれも同じ問題をかかえている。しかし一般的にいえば、日本では研究をしないと社会や周囲に対して恥ずかしいという気持ちを大ていの人が持っているから、身分保障に安住している人のパーセンテージは少ないといっていいだろう、と答えたのだったが、システムもさることながら、これもまた雰囲気が大きくものをいう場合であろう。
国際理論物理学センターの存在の最も大きな意義の一つは、これらの国の意欲的な学者に対して、研究の雰囲気を提供していることにあるのである。種々問題はあるにしても、ともかく大学が研究の場という雰囲気をもっていることは大変有難いことなのだということを、改めて教えられたのであった。