——恵まれた日本
近頃はまた紙が不足するという事態が時おり起こるようになったが、そんな時ですら、私が学生時代を過ごした敗戦後間もなくの紙不足・本不足にくらべれば、まだまだ天国のようなものである。
その頃はそのうえ、洋書にあらざれば読むに値せずという気分が濃厚に残っていたし、また事実日本語で書かれた物理学の良書がまだまだ少なかった。少なくとも標準的な教科書についてはほとんど全部洋書に頼らざるを得ず、それを手に入れるのに苦労したものである。何しろ、洋書を指していう「原書」という言葉が実感をともなって生きており、「原書を読む」ことに特殊なプライドさえ感じた時代だったのである。
一方では和文の物理学書も少しずつ出てきていて、洋書万能主義のかげがうすくなりつつある時代でもあったが、すぐれた教科書や参考書が日本語でどんどん書かれるようになり、外国語が読めなくても物理学のかなり進んだところまで学べるようになった今からかえりみると、まったく隔世の感がある。
イタリア、トリエステの国際理論物理学センターにしばらく居たとき、発展途上国の学者たちから、日本では何語で物理学を教えるか、とたびたび聞かれて戸惑ったことを思いだす。もちろん日本語で教える、と答えると、とても考えられない、という顔をされるのが常だった。もっともたとえばインドなどでは、おどろくほど多数の言語が群雄割拠していて、英語以外に共通語がないという困難があるから、必ずしも自国語で教えられないことがすなわちその国の物理学の程度が低いことを意味するわけではないが、とにかくこの点では日本は恵まれた国だという感を深くしたのであった。
学問の性質上、洋書を読むことが不可欠な学科では、今でも「原書講読」という科目がカリキュラムの中に残っているが、物理に関する限り、「原書」という言葉はもはや死語になったといってよいであろう。