——講議とはむずかしいもの
講義が下手で、時々学生諸君から「わかりにくい」といわれる。若気の至りで、新知識を自分よりもさらに若い人に伝えようと、やみくもにしゃべりまくったかけ出しの頃に比べれば、内容も整っているはずだし、スピードも半分以下に落としてていねいに話しているつもりなのだが、と言ってみるものの、あまりいいわけとして通用しないようである。
講義というものは山の本のようなものだ、というのが私の意見である。どんなにすぐれた山の本でも、それを読んだだけでは山のすばらしさは決してわからないように、いかに名講義であっても、聴いただけでは物理の面白さは本当にはわからない。山にしても物理にしても、自分で一歩々々汗を流さなければ真のだいご味はわからないものであろう。
しかしそれだからといって、山の本が無用だということにも、講義なぞ下手でもよいということにもならないのはもちろんである。ただ、講義にしても山の本にしても、あまりかゆい所に手の届くようなものは、みずから未知へいどもうという意欲をかえってそぐおそれがある。ことがらに関する情報は、大事なポイントだけが整理して書かれていれば十分であり、それよりもむしろ、山なり物理なりの面白さを生き生きと伝えて、探究心を鼓舞することの方が重要と思われる。
若い先生の講義は、体系としての整理が足りない代わりに、みずからが体得しつつある物理の面白さや新知識を学生に伝えてやりたい、という清新な息吹きにあふれていることが多い。しかし年がたつと、内容の方は借りものの知識の集まりでなくて、独自の体系が整えられてくるかわりに、清新さの方はとかく失われがちなものである。
整っていてポイントがよく押さえられており、しかも物理の面白さがにじみ出た講義をすることの何とむずかしいことよ、という嘆息がつい先に立つが、下手なりに少しでもましな話をしたいものだ、と思うのである。