うろ覚えではなはだ心もとないのだが、子供の頃読んだ本に、「テムズ川の夕景は昔からあったにちがいないが、その夕景の美はターナー以前には存在しなかった」というくだりがあったのを記憶している。ちなみにターナーとは、大方御存じのことと思うが、「戦艦テレメール」などの名画で知られた英国の水彩風景画家である。
その本は、日本児童文庫の一冊で、たしか山本鼎の「名画の話」だったと思う。今から考えるとそれは、歴史に残る名画の一枚一枚を解説しながら、絵画というものの本質をいつのまにか悟らせてくれる名著であった。私はそんなことには気がつかずに、一つの面白い読み物として読みふけっていたにすぎないのだが、上記のくだりを今でも覚えているところをみると、その意味するところがはっきりとは掴めなかったにもかかわらず、何となくその含蓄を感じとっていたのかもしれない。
美しい風景を見て、まるで絵のようだと感嘆するのはよくあることである。このまったく素朴な嘆声は、しかしちょっとひねくって考えると奇妙なようにも見える。よくできた絵がホンモノの風景に似ていると感心するのはごく自然だが、ホンモノの風景がそれを写したにすぎない絵とそっくりだといって感心するのはおかしなことではないか?
これは多分、次のようなことだと思われる。
知り合いの画家O氏は海と灯台の画が得意で、私もそれらが好きである。モデルとなった実在の灯台風景からは想像もできないような色をした灯台や海が描かれている。素人眼にはモデルなどなくても似たような画が描けそうに見えるのだが、しかし実物を見ずに頭だけで描いたのではとうてい出そうにない真にせまった味わいがあるのだ。
あるとき、あの色はかなり勝手に創り出すのか、それとも実物を凝視しているうちに必然的にきまってくるのかという愚問を発してみたことがある。いや、描いては見つめ、描いては見つめしているうちに、どうしてもこの色でなければならないという色がピタリときまってくるのですよ、というのが彼の返事であった。
またあるとき、ある風景画がどうもあまり気に入らない、と遠慮のないところを言ったら、実はそれは、こんな風景があればいいなあ、と思った風景を、まったく想像で描いたのです。技巧だけで描いた画だということを見ぬかれてしまいましたね、と彼が苦笑したこともあった。
これらのことは、よい絵画というものは単なる技巧の産物でもまた現実の風景の単なる模写でもなく、実在の風景にひそんではいるが普通人が発見できないような美をすぐれた画家が抽出し、画布の上に表現することによって、はじめて生まれることを教えている。冒頭に引用したターナーに関する言葉は、普通人が何の感情もなしに見すごすような風景からも、すばらしい美を才能のある画家は見出すことができるものだということを言っているのであろう。
しかし、特別に美しい風景に接したときは、平凡人でもかなりの程度そこから美を感じとることができる。そのようなとき、画家が行うような美の抽出に、自分も成功したというよろこびが、まるで絵のようだという嘆声となって現れるのであろう。こう考えれば、この素朴な嘆声は、決しておかしくはなく、むしろ極めてすなおな感情の表出であることがうなずけるのである。
物理の実験をやってみて、それがうまくいったとき、なるほど物理の法則がちゃんと成り立っているのだなあと感銘するのも、これと似たところがある。いや単に似ているだけでなくて、本質的に同じことではなかろうか。画家が現実世界からその奥にひそむ美を抽出するように、物理屋は現実世界からその底にひそむ物理法則を探し出す。自分もニュートンやマクスウェルのような大物理学者がなしとげた法則の抽出を、おそまきながらあとづけることができた、というよろこびが、上記の感銘の内容であろう。
物理法則は、複雑な自然現象をありのままに観察しただけでは発見できないのが普通である。現実の世界には多数の物体が雑居しており、また一つ一つの物体も多種類の属性を持っているので、あるがままの自然界に起こる現象は、多数の要因がからみあって、非常に複雑なものになるからである。そこで物理屋は、着目している属性と、それを支配する要因のみが観測にかかるように、できるだけ単純化した条件を人為的に作り出してから実験を行う。つまり現実の世界のある一面だけが純粋に現れてくるような、理想化された舞台をしつらえてやるのである。
たとえばあまり面白い例ではないが、重力場の中での物体の重心運動をしらべる場合には、物体の形や色やその弾性的な変形などのことは意識の外におき、また重力以外のたとえば風や摩擦などの外力の影響をできるだけ小さくした状況のもとで実験を行う。いいかえれば、ありのままの自然界から極めて特殊なその一局面だけを抽象化し、ぬき出して考えるわけである。
このような抽象化は、一見自然に背を向けて人工的な世界に閉じこもるように見える。しかし、複雑な現象の奥深くにかくれている基本的な法則を見出すためには、抽象化は避けられないのであり、これによって初めて、自然を支配する法則をその本質的な形でとり出すことができるのである。ちょうど絵画において、純粋な形で美を抽出するためには、余計な細部を省略したり、重要な部分を誇張したりして、いわゆるデフォルメを行うことが必要となるようなものである。
物体の原子的構造をきわめることを主な仕事とする現代の物理学では、さらに進んだ抽象化が必要になる。なぜなら、物質の原子的構造や一つ一つの原子は、直接眼に見えるわけではない。われわれが観測するのは、原子の運動全体の結果として現れる物質の巨視的な振る舞いや、物質にX線や中性子線をあてたときにそれらが物質を構成する電子や原子核と相互作用する結果現れる回折パターンなどである。これらの測定結果から物質の構造を推定して理論的な計算を行い、計算結果を実験と比べることによって初めの推定が的を射ていたかどうかを判定するという間接的な方法によって原子構造をきめざるを得ない。ところが、物質は一般に複雑な構造をもっている。そのため現実の物質に忠実であろうとするあまりに、構造を推定するさいに考え得るあらゆる要素をもれなくとり入れてしまうと、その性質を理論的に計算することが極めて困難になるという事情が生じる。そこで、今着目している現象にとって本質的だと思われる要素だけを残し、そうでない部分は切り捨ててしまうか、またはできるだけ単純化したモデルを考え、それについて計算を行う、こうして得られた結果が実験事実の本質的な部分をよく説明していれば、考えたモデルは実際の物質の本質をよく浮き彫りにしたよいモデルであるとするのである。このようなモデルは、単に物体からその色や形という属性をぬき去るという操作より、はるかに高度の抽象操作によって作られるのである。
簡単化されたモデルを考えることは、一方では上述のような計算の困難さのために、やむを得ず行うことであるが、他方ではむしろ望ましいことである。というのは、もし計算の困難がなくて、個々の物質について実際の物質に非常に近く、したがって注目している当の性質ばかりではなく、他の性質をもことごとくよく説明できるモデルを作ることができたとしても、それが物理法則という観点からみてどれだけの意味をもつかは疑問だからである。法則というからには、多少とも広い範囲の物質に対して共通になりたつものでなければならないであろう。個々の物質を正確に記述しようとすればするほど、いろいろな属性や、それらの相互のからみ合いを漏れなく考慮しなければならなくなるが、その結果それに対する法則を見出そうとしている属性についてみると、むしろ邪魔な要因までとり入れることになって、かえって法則性が見失われてしまう危険が大きくなる。
こういうわけで、できるだけ広い範囲にわたってなりたつ法則をみつけたいという物理的な問題意識からみると、個々の物質に対してはかなり大きな省略やデフォルメがあっても、着目している物性の、多数の物質に共通な本質をよく説明するモデルの方がすぐれているということになるのである。
このような場合に行われるデフォルメは、絵の中でもとくに漫画のそれに似ているといえそうである。よい漫画、すなわち対象となっている人物なら人物の本性をするどくえぐり出して、それをヴィヴィッドに描いてみせる漫画にするには、如何にして本質的でない部分を大胆に省略し、如何にして本質的な面を思いきって誇張するかがポイントになる。同様に、物質のよいモデルを作るのにも、省略と誇張を如何にうまく行うかがポイントになるというわけである。いずれにせよ、物理屋の仕事には、画家や漫画家の仕事と共通な面が多分にあるといってよいであろう。
しかしながら、美を抽出するために画家が現実の世界から切り捨てた部分が、美にとっては非本質的であり些細であっても、他の観点から見れば非常に重要であるかもしれないということを忘れてはならない。たとえば人家の庭にひるがえる洗濯ものや、路傍にちらばった紙くずなどは、美の立場からは多分切り捨てられるべきものにすぎないが、社会現象としては本質的な意味をもつであろう。同様に、ある物理モデルが物質の一つの属性を支配する法則の理解に有効であっても、そのモデルを作るさいに見捨てられた部分が、他の属性に関しては重要な役割を演じることがあり得る。もっとも個々の物質の原子構造は、複雑といっても気象現象、地質現象、生命現象、社会現象その他森羅万象の底にある物質構成や人間関係に比べれば、問題にならないほど単純である。それゆえ物理では高々指で数えられる程度の数の属性を考えて、そのそれぞれに対する漫画を描けばよく、また都合のよい場合にはこれらの漫画を再び統合してより統一的な物質像を作ることができるかもしれないという期待さえもてることがある。しかし科学のすべての分野に対してこのような期待をもつことは無理と思われる。同じ景色を描いても画家によってでき上がった画はずいぶんちがい得るのである。
物理屋は、少数の比較的単純な法則が、広い範囲にわたってなりたつのを見なれすぎている。このため一つまたはいくつかの属性の本質をよくついた、あるいはよくついているかのように見えるモデルないし漫画が一つ見出されると、その有効性に酔って、すべてがそれで割り切れると錯覚しがちだが、それはいささか傲慢というものであろう。