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物理の風景105

时间: 2019-07-26    进入日语论坛
核心提示:紅茶・テープレコーダー・エントロピー 紅茶中毒ですね、と人から言われるほど紅茶が好きである。一日に三杯は紅茶を飲まないと
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 紅茶・テープレコーダー・エントロピー
 
 紅茶中毒ですね、と人から言われるほど紅茶が好きである。一日に三杯は紅茶を飲まないと、どうも気分が落ち着かない。理論的にはそんなことはあり得ないはずなのだが、夕刻以後コーヒーを飲むと夜とかく眠れなくなるのに、紅茶だと就床直前に三杯飲んでも熟睡出来るのだから、救いがたい。
 田舎を旅行していると、一日中全く紅茶を飲む機会がないことがしばしばあるが、そういうときには、大げさにいえばちょっとした禁断症状を呈してしまう。次に紅茶にありついたさいには、たとえそれが怪しげな喫茶店のインスタント・ティーであっても、何にもまして美味しく、腹の底からしみじみとした幸福感が湧いてくるような気分になる。
 それほどの症状になくても、街をあちこち歩きまわって疲れたときなどは、喫茶店で一休みして味わう一杯の紅茶が、たいていの場合、文句なく気分を爽やかにし、次の行動に移るエネルギーをリクリエイトしてくれる。もっとも、札幌の街の場合には、疲れていても研究室に戻るまで我慢して、戻ってから自分でいれることもある。自分でいれた紅茶が、何といっても一番美味いからである。
 近頃はバッグ・ティーで間に合わせる喫茶店が多くて幻滅である。喫茶店をやっている知人の話によると、そうでない場合も、同じ葉を二度使ったり、点滴のような面倒な手間を省く店が多いのだそうだ。喫茶店で飲むのは紅茶ではなくて雰囲気なのだ、と思っても、そう聞くと、金を払って紅茶を飲むのなど、お人好しのすることにも思えてくる。しかしやはり、自分でいれることができない旅先その他で、紅茶に飢えてくると喫茶店にとびこむという私の習性は変わりそうもない。
 田舎には喫茶店というものがそもそも少ないが、それは止むを得ないとしても、コーヒーはあるが紅茶はないという店が多いのには閉口する。また紅茶はできるが、レモンティーだけで、ミルクティーはないという店も時々ある。それに、旅先でよく利用する、というよりも利用せざるを得ない列車の車内販売で、コーヒーは売りにくるが紅茶は決して売りにこない、というのも不思議な現象である。コーヒー党が紅茶党よりも数の上で圧倒的に多いのはたしかだが、だからといって紅茶愛好者を無視してよいことにはなるまい。
 紅茶が飲みたいのにコーヒーでがまんさせられるという眼に会うたびに、イギリスに住んでいたときや、ヨーロッパ各国をまわったときはそんなことはなかったが、とヨーロッパが何でもかでもよいと思っているわけでは決してないのだけれども、つい考えてしまう。
 紅茶のいれ方にしても、売り方にしても、もうかりさえすればよいという考えが露骨にあらわれているような気がしてならない。味の方はさておくとしても、コーヒーか紅茶かは言うに及ばず、ミルクかレモンかの選択ぐらいは、どこへ行っても自由にできるようにしてほしいものだと思う。
 こういうことは、何も田舎や列車の中に限った話でも、また紅茶に限った話でもない。
 四、五年前に、某社のオープンリール用の小型テープレコーダーを愛用していたことがある。重さ五キロぐらいで、持ち運びが手軽にでき、大変重宝していた。ところが、必要があって、同じ器械をもう一台買おうと思ったところ、その型はもう作っていない、といわれた。そのためより高級品ではあるが、はるかに重くて到底気軽には持って歩けないものを買わざるを得なかったことがある。
 その頃はもう、カセットの質がかなり良くなっていたから、携帯用の録音器はカセットレコーダーにまかせるという方針になっていたらしい。音質にそれほど神経質になる必要のない私の使用目的に対してはカセットで十分だったのかもしれないが、私はどうしてもオープンリールに愛着があったし、今でもそうである。不合理な食わずぎらいといわれても、好みというものは理屈では割り切れないものだから仕方がない。それぞれの嗜好と目的にてらして一旦これだと思った製品をいつまでも愛用できるようにしてほしい、と思ったことである。
 テープレコーダーに限らず、電機製品、カメラ、その他もろもろの器具のモデルチェンジが頻繁に行われて、一つのものを息長く愛用しにくいという状況は、まことに困ったものである。古いものを大切にして愛用しようとする人たちは少数派であるかもしれないが、少数派であるがゆえに、モデルチェンジという強制によって、いやおうなしに使いたくもない器械を使わされるのはかなわない。
 その時代々々によって、最も需要の多い規格型の製品が変化してゆくのは当然であり、止むを得ないことである。しかし、規格から外れたものがまったく作られなくなるということ、いいかえれば、ごく少数の種類に製品が「規格化」されてしまい、少数派のほしいものがその規格の外にはみ出て無視されてしまうのが問題なのである。
 製品がより精巧に、より便利になるのは結構なことだが、高級なものしか作られなくなり、それにひきずられて高級なレベルですべてが規格化されるのは少しも結構なことではない。使う目的によっては牛刀で鶏をさく愚に堕するにすぎない場合もあるのだから、それぞれの目的にとってちょうど手頃な製品がいつでも手に入るように、規格から外れたものもつねに用意しておくのいが、商売道というものではないだろうか。
 このほかにも似たような例は枚挙にいとまがない。私が切実に感じている例を二、三あげてみよう。文房具は私のような商売にとっては伴侶のようなものだが、気に入ったデザインのものをずっと使い続けたいと思っても、頻繁すぎるモデルチェンジのためにそれがむずかしく、好きな伴侶と永年つれそうことがほとんど不可能である。また私は地図に大きな関心をもっており、とくに国土地理院の地形図を昔から集めているが、これの図式がやたらに改正されるのは困りものである。時代の変遷に応じて地物の表現法が次第に変わってくるのはある程度必然的なことだから止むを得ない。だが、変えなくてもよい記号まで変わり、しかも中には改正ではなくて改悪と思われるものもかなりある。そのために古い地図と新しい地図を比べて地物の変貌を客観的に追うことができにくくなってしまった。図名や隣接国名の記されている位置が変わるのも、地図を整理する上に大きな支障となる。
 新幹線があちこちにできて、急ぐ場合に目的地へ速く着けるようになるのは、それはそれでありがたいことである。しかし、そのために、ゆっくり走る列車がどんどん減って、のんびりと旅情を楽しみたい人がワリを食うのは、少しもありがたくない。いやそれ以上に、単なる場所の移動でない本当の旅を味わいたいと本来思っている人たちまでが、周囲がやたらに急ぐために、何か急がなければ気がひけるような気持ちになってしまうのがおそろしい。スピードアップが悪いというのではなく、私自身もそれだけの値うちがあると考えたときは積極的に利用している。ただ私にとっては速く行くことが至上価値ではないから、アップしたスピードにすべてのスピードが規格化されてしまい、その規格から外れた人間が異端視されるような風潮が生じることが困るのである。ゆっくり旅をしたい人も、急ぐ用事を持つ人も、平等にそれぞれの目的に応じた乗りものを選ぶことができるようにしておいてほしいのだ。
 消費生活が豊かであるということは、バラエティに富んだ好みや目的にこたえることのできる、多様な製品がつねに用意されていて、選択の可能性が大きいことだと私は思っている。高級品を作るのも悪くはないが、高級品ばかりしかなく、簡素な生活をしたいと思う人までが、不必要な性能まで、ムダな金を払って買わなければならないようでは、文化が高いとはいえないであろう。高級品を使うことと、心ゆたかな生活をすることとは別のことなのである。高級品を使いたい人が使うのはもちろんまったく差し支えないが、万人にそれを押しつけるのはコマーシャリズムのエゴだと思うのである。
 モノを作るということはエントロピーを小さくすることであり、大ざっぱにいって、高級品ほどエントロピーが小さいといってよいと思われる。人間は自分の意志でエントロピーを小さくすることができることで他の動物にぬきん出ており、その能力によって文化、文明を創りだしてきたわけだから、エントロピーの小ささが文明の高さをはかる一つの尺度であることは間違いない。芸術作品にしても、すぐれた作品ほど、どこか一ヵ所を一寸変えるとまったく違ったものになってしまって、味わいがガタンと落ちてしまうものである。これは、その作品が表現しようとする内容に対して、ほとんどただ一つの表現の可能性しかないということだから、やはりエントロピーが小さいということに他ならず、したがってここでも、エントロピーの小ささが作品の質の高さをはかる尺度となるといえよう。
 しかし、エントロピーの小ささは、あくまでも文化の高さの一つの尺度に過ぎない。ある製品がいかにすばらしい高級品であっても、すべてがそれに規格化されてしまって、世の中に存在するのがその一種類だけになったら困るのはわかりきっている。またどんなに洗練された芸術作品でも、それ以外の作品の存在が許されない社会がもしあったとしたら、それはおそるべき味気のない、おそらくどこかに重大な欠陥のある社会であることは間違いないであろう。
 個々の作品なり製品なりについては、エントロピーが小さい方が、あるいは少なくともエントロピーの小さいものの存在する方が文化が高いことになるが、多くの作品や製品の集まりに対しては、極力規格化を排して、選択の可能性を大きくすることが文化を高めることになる、と考えられる。
 熱力学の第二法則が正しい限り、エントロピーを小さくしようとすれば、どこか他の場所で必ずエントロピーが大きくなって、公害が発生する。石油危機のおかげで、やみくもにエントロピーを小さくすることにのみ逸ってきたことに反省の機会が与えられたのは、ありがたいことと思わなければならないであろう。規格化をできるだけ少なくし、選択の可能性を増やすことによってエントロピーを大きくすることが、直ちに公害の減少につながるとは性急に結論できないが、何等かの意味でその一助になると思われる。
 それはさておいても、少数派が疎外されることをなくして、真の意味で豊かな社会を作るのに貢献することは間違いないと思うのである。
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