大学病院の周りの道路はひどく混雑していた。病院内に入ろうとする外来患者の車の列が公道まではみ出し、渋滞を引き起こしているのだ。利明は苛立《いらだ》った心を抑え切れずに何度もクラクションを鳴らした。
電話の相手は緊急外来のスタッフの一人だった。聖美は自動車に乗っていた。下り坂のカーブをなぜか直進し、電柱に激突したのだという。ブレーキを踏まなかったのか、車は大破していた。額を強く打っていたという。事故のあった場所を訊《き》くと、利明もよく通る幹線道路だった。確かにスピードは出やすいが、見通しはよく、危なさは感じられない道だ。どうしてそんなことになったのかわからなかった。
「くそっ」
悪態をついて利明はハンドルを切った。センター寄りの車線に割り込み、Uターンする。豚の鳴くようなホーンがあちこちで響いたが、かまっている暇はなかった。病院の裏口にまわり、職員用の駐車場に車を滑り込ませる。物品搬入用の入口から中に入った。途中で通りかかった看護婦を捕まえ、緊急外来の場所を尋ねた。
利明は駆けた。中央廊下が果てしなく感じられた。革靴の底がリノリウムの床の上で神経質な音を立てる。いつしか利明は聖美の名を眩《つぶや》き続げていた。通路を右に曲がったとたん、歩いていた老婆を突き倒しそうになった。すんでのところで身をかわし、握《ねじ》るような姿勢のまま利明は走り続ける。信じられなかった。なにかの間違いなのだ。今朝も聖美はいつもと変わらない笑顔を浮かべていたではないか。利明は今日の朝食を思い出した。卵焼きと鮭《さけ》の塩焼きだった。味噌汁の中には豆腐と若布《わかめ》が浮いていた。なんという朝食だったのだろう、と利明は思った。あまりにも普通だった。明日も、明後日《あさつて》も、いつまでも今日と同じ生活が続くと考えているからこそ聖美はそんな料理を出したのだ。突然過ぎる。こんなばかな話はない。今朝は聖美と二人で外に出た。聖美は郵便局に行くといって小型自動車に乗り込んだ。買い物に必要だからと半年前に中古で買ったばかりの車だった。可愛らしい装飾の好きな聖美とよくあう、赤い色の車だった。
「永島聖美さんの御家族のかたですね?」
その場についたときは息を切らしていた。年配の看護婦が駆け寄ってきて、ぜいぜいと喉《のど》を鳴らす利明の顔を覗《のぞ》き込んだ。利明はひとつ唾《つば》を呑《の》んでから、そうだと答えた。
「聖美さんは重体です」看護婦は事態を説明した。「自動車事故で頭部を強く打ったようです。こちらに運ばれてきたときにはすでにかなりの脳内出血が起こっていて、呼吸が停止していました」
看護婦にすすめられ、利明は廊下に設置されているソファに腰を下ろした。看護婦のいったことが俄《にわか》には信じられなかった。利明は呆然《ぼうぜん》と看護婦の顔を見つめた。
「助かるんですか……?」
「いま緊急手術室で治療がすすめられています。しかし非常に危険な状態です……。親戚《しんせき》の方々をお呼びになってください」
利明は哺《うめ》いた。
聖美の両親はすぐに駆けつけてきた。聖美の父親は古い住宅街で外科医院を経営しており、そのすぐ隣に家を持っている。この大学病院から五キロと離れていない。
ふたりは真っ青な顔をしていた。父親のほうが利明に状況を聞き、危篤状態だとわかると、こみ上げるものを堪《こら》えるかのように目を閉じ、そしてどっかりとソファに座り込んだ。母親のほうは完全に取り乱し、ハンカチで顔を覆いながら、利明や近くにいる看護婦にわめき散らした。利明はそんな義母の姿をぼんやりと眺めていた。聖美の母親がこんな醜態を見せるとは意外だった。聖美の両親も人間らしいところがあったのだと、利明はようやく気がついた。高級な家具に囲まれ、上品な服をまとい、微笑みながら紅茶を飲み、幸せで安らかな団樂を楽しむ。利明が初めて聖美の家に招かれたときには、そんな印象しか受けなかった。父親は頼りがいがあり優しく、母親は物静かで、しかし笑顔を絶やさない。まるでホームドラマだ、と思ったものだ。しかし、いま目の前にいるふたりからは普段の穏やかな振る舞いを想像することができなかった。生身の感情をむき出しにしていた。
「落ち着きなさい」
義父のほうが妻の名前を呼び、そうたしなめた。だがその声は震えていた。義母はびくりとして振り向き、両目を大きく見開いた。そして一度大きくしゃくり上げ、崩れるようにして夫の体に凭《もた》れた。
昼を過ぎたが、何も食べる気が起きなかった。利明たちは看護婦の勧めで待合室のほうに移り、壁にかかっている時計を眺めながら放心した状態で座っていた。時折り看護婦が来て、聖美の様子を伝えた。マッサージ処理でなんとか呼吸は回復したものの、かなり自発呼吸能が落ちており、人工呼吸器をつけている状態だという。何度かCTスキャンを受け、その後|集中治療室《ICU》に移されたようだった。
医師が利明たちの前に現れたのは、それから三〇分後のことだった。利明たちは反射的にソファから腰を上げた。
眼鏡をかけてひょろりとした感じの男だった。まだ若い。三十代になったばかりだろう。しかし顔立ちは引き締まっており、瞳は優しげで、利明は好感を持った。医師は自分の名を告げ、脳外科の専門医だといった。そしてしっかりと利明たちに顔を向け、はっきりと、しかし誠実な口調で聖美の容態を説明した。
「永島聖美さんは、脳に重篤な出血を起こしていました。こちらに運ばれてすぐに脳の手術と心肺蘇生をおこないましたが、現在は人工呼吸器をつけている状態です。自発呼吸は停止してしまいました。引き続き、強心剤を投与するなど出来る限りの処置をおこないます。しかし、現在のところ、聖美さんは深|昏睡《こんすい》の状態にあります。非常に残念ですが、聖美さんは脳死状態に向かいつつあるといわざるをえません」
ああ、と声を上げて聖美の母親が顔を伏せた。
利明はなんと反応したらいいのかわからなかった。人工呼吸器、深昏睡、脳死などといった言葉が頭のなかで渦を巻いていた。聖美がそんな単語で表現されるということが信じられなかった。
そのとき、突然、利明は熱を感じた。
はっとして顔を上げた。全身が燃えそうなほど熱かった。外温が上がったのではない。体の内部が発火している、そんな感じだった。温度は急激に上昇していった。わけがわからず、利明はあたりを見回した。だが視界は赤く染まり、やがて何も見えなくなった。
利明は悲鳴を上げようと口を開いた。だがざらざらとした息が漏れるばかりだった。喉の奥が蒸発していた。いまにも指の先から烙《ほのお》があがりそうだった。焼ける、と利明は思った。このままでは焼けてしまう。
「……これから聖美はどうなるんでしょう」
ふっと熱気が消えた。義母が医師に質問していた。
「現在、脳波と血圧、それに心拍数をモニターしています。また、脳内への血流が停止すると脳細胞が死んでゆきますので、それをCTで検査します。そういった検査の結果を確認してから、脳死判定をおこなうことになります……」
どこかで医師が答えていた。利明は目をしばたたいた。自分の手が見えた。左手だった。手を閉じたり開いたりしてみた。指の動きがしっかりと確認できた。焔はあがっていなかった。
気がつくと、利明の隣で聖美の父親が医師と話をしていた。母親が父親に寄り添うようにして立っている。夕方には聖美が一回目の脳死判定を受けることになるかもしれないということが医師の口から聞こえてきた。
利明はふらふらとソファに腰を下ろした。先程の幻覚がまだ尾を引いていた。こめかみのあたりがひどく痛かった。
「大丈夫ですか?」
医師が声をかけてくる。利明はぞんざいにそれを手で振り払った。
聖美が死ぬ。
だまされているようだった。全てが遠い世界の出来事のようだった。まだ全身が火照《ほて》っていた。あれは何だったのだろう、ずきずきと音を立てる頭の中で、利明は思った。あの熱さは、いったい何だったのだろうと。